哲学の本と宗教の本
2009-09-16


「宗教のお話を聞きに来る人が減ったということですが、やっぱり言葉が価値あることを忘れたということだと思うんですね。人が言葉というものを信じなくなっている。言葉が人生にとって如何に大事なものか。人生とは言葉そのものだなんて、まったく理解しませんね。言葉とは携帯電話で話して垂れ流すもの、話すとは思ったままを話すことであって、そうではなく考えたことを話すものだといっても、人は理解できない。人がほんとうに自分が生きるか死ぬかのクライシスになったときに求めるものは、お金でもモノでもなくて、ほんとうの言葉でしょう。言葉がなければ人は生きられない。この真実に気づかないから、人の話を聞きに行こうとか、哲学の本を読もうとか、そういうことがない。言葉というものが非常に軽視されている」(「君自身に還れ」池田晶子・大嶺顕著 本願寺出版社発行ページ40)

と、池田さんは嘆いているが、哲学の言葉が好きなのか、宗教の言葉が好きなのか、はたまた携帯電話から流れる言葉が好きなのか、それはもって生まれた脳の志向(つまり、遺伝)によるもので、ほとんど訓練でどうにかなるものではないだろうと、私は思うのだ。私が見るに、哲学遺伝子が入っていないほとんどの日本人の脳は、哲学の本や言葉を楽しく感じられるようにはできていない。

それでも、難解だった本、さっぱりわからなかった本が、ある日突然わかったという読書体験も色々とあったので、私もまだ哲学の本を完全にあきらめたわけではない。死ぬまでのいつか、哲学言語を理解する遺伝子が突然どこからか飛んでくるかもしれないと思い、カントやヘーゲルの本を今でもちゃんと本棚の隅に保管してある。

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