実は、アジャシャンティの動画を初めから最後まで見たのはこれが初めてだった。私は必要があるとき以外、ほとんどスピリチュアル系の先生の動画は見ないのだけれど、たまたま別の動画を見ているときに、なぜかサイドにAdyashanti - On Osho(アジャシャンティ、Oshoについて語る)の動画が出てきて、アジャシャンティがOshoについて何を語ったかに興味がわいたのだ。
インタビューは、冒頭、「あなたは自由時間に何をしているのですか? ネットフリックスとか見るのですか?」という軽いノリの質問から始まり、それに対して、アジャシャンティは、「もちろん、見ますよ。テレビで映画とかドラマも見ます」と答え、それからネットフリックスで見たOshoのアシュラムについてのドキュメンタリーについて語りだした。そのインタビューの最中、アジャシャンティって、こんなに笑う人だったっけ? とちょっとびっくりするほど、彼はよく笑い、楽しそうに答えているのが印象的だった。
彼がOshoについて語ったことは:
*Oshoの中に明晰さがあり、それが非常に多くの人たちをスピリチュアルへと導いたし、彼は最初から、妄想をいだいたペテン師ではなかった。
*仮に人に霊的目覚めや悟りの体験があったとしても、それはその人が完璧であることを保証しない。
*人はある面では、非常に明晰でありながら、他の面がまったく成長していない、ということはよくある。
*霊的洞察があるからといって、すべてを正しく知っているとはかぎらない。
*私たちは悟りとはそのようなものであってほしいという幻想をもっているし、悟りは人に自信を与えるかもしれないが、それは自信過剰になり、自分を騙すことになる。
*私は以上のようなことがOshoに起こったのだと思う。自分はその場にはいなかったが、ドキュメンタリーを見ると、そのように見える。
と、だいたいまあ上記の主旨のようなことをOshoについて語った。私も20代の一時期Oshoの教えと関わったことがあるので、アジャシャンティが語っていることは理解できる。私の印象でも、アメリカでのOshoの団体はかなりあやうい感じがしたものだ(私自身は、アジャシャンティが言及したOshoのアシュラムについてのドキュメンタリーを見ていないが)。
アジャシャンティはOshoのような例は今まで山ほどくりかえされてきたといい、特定の人(先生)を自分より素晴らしい人として、台座に乗せて崇拝しないようにと警告を与えるが、たぶん、悲観的予想をすれば、これからもスピリチュアルな世界ではこの「アイドル化」は永遠になくならないのだと思う。なぜなら、私たちのマインドにとっては、内側(自分の本質、思考や感情)を見るよりも、外側(先生)を見るほう(崇拝するほう)が苦痛がなく、楽(らく)だし、楽しいからだ。
アジャシャンティは言う――人が誰かを崇拝するとき、人は自分の中の最高のものを相手に渡して、相手を崇拝し、そして、最後には必ず相手に腹を立てる(笑)。そして、スピリチュアルな目覚めや悟りの経験がある人にとって、重要なこと、つまり、この「崇拝=アイドル化」を防ぐ一番の防衛は、正直であること、誠実であること、どんなときにも「自分が完璧であるふり」をせず、正直に、誠実に人と接することだと。
人としては、著名な賢者の方々も含めて、誰も完璧で完全ではありえないし、間違いを犯さない人はいない。
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