最近読んだ本から ― 2025年05月25日 08時56分33秒
〔新刊お知らせ]
*『猿笑非二元講座』
Youtube で公開している『猿笑(さるわらい)非二元講座』の電子書籍版。付録に、『シンプル道の日々3』(2022年~2024年)も掲載しています(総文字数約20万字。新書版2冊くらいの分量です)。
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
『欧米に寝たきり老人はいない』宮本顕二・宮本礼子(中央公論新社)
前回のブログでも紹介した本。肉体年齢60歳を超えた人、そして高齢の親がいる人たちに読んでもらいたい本。
『笑わない数学1&2』NHK「笑わない数学」制作版(KADOKAWA)
NHKで放送された番組の書籍版。数学の難問に挑む数学者たちの姿が生き生きと描かれている。数式はたくさん出てくるが、文章は読みやすい。
過去10年間、私が一番たくさん読んだジャンルの本がたぶん数学だ。スピリチュアル系の本よりはるかにたくさん読んでいる。数学が私にとって興味深い理由は、数学者たちの情熱、「こんなことを考え続ける人がいるんだ!」という驚き、そして、数学に関する発見・証明は、時代と地域を超えた普遍的なものであり、そして最後に、数学の世界に人間の感情が入らないからだ。地上のゴタゴタから逃げるのに、非二元スピリチュアルと数学はよい逃避場所(笑)となる。
一方で、天才数学者たちの人生そのものは波乱万丈である。自分たちの数学理論の秘密をもらしたという理由で弟子を殺したピタゴラス、20歳で決闘で死んだガロア、その他研究に没頭するあまり精神が崩壊する人たちなど。
数学に関心がある人は非常に少数だと思うので(それでも本の出版件数から推測すれば、非二元スピリチュアルよりはるかに多数のはず)、今までブログの中で数学の本は紹介してこなかった。おまけに私がこれだけ数学の本を読んではいるのに、数学をほとんど理解もしていないので、わかりやすく説明もできない。「好き」と「能力」のミスマッチ、とても悲しくはあるが、それでもめげずに(笑)私は今日も数学の本を読んでいる。そして、数学への関心が広まってほしいとも思っている(お金はかからないので、老後の趣味にお勧めです)。
その他一般向けのお勧めの数学の本
『数式のない数学の本』矢沢サイエンスオフィス編著(株式会社ワン・パブリッシング)
数学がいかに私たちの生活に入り込んでいるか、数式を一切に使わずに説明している。
『素数の音楽』マーカス・デュ・ソートイ(新潮社)
『数学が見つける近道』マーカス・デュ・ソートイ(新潮社)
『数学が見つける近道』マーカス・デュ・ソートイ(新潮社)
最近私が非常に好きなイギリスの数学者のエッセイ。数学の魅力が深く味わえる。翻訳も非常にいい(感じがする)。
『フェルマー最終定理』サイモン・シン(新潮社)
17世紀にフェルマーが残した数学界最大の「超難問」は、いかにして解かれたか。数学者ワイルズが完全証明するまで、3世紀にわたった数学を巡る「歴史ドラマ」を分かりやすく感動的に描く。
『死にそうだけど生きてます 』ヒオカ(CCCメディアハウス)
『死ねない理由 』ヒオカ(中央公論新社)
『死ねない理由 』ヒオカ(中央公論新社)
4人家族で世帯年収が百万円にも満たない貧困家庭(おまけに父親が暴力男)で育った女性が、親族の中で初めて大学まで進学したものの、卒業後も安定した仕事を見つけられず、常に体調不良で、おまけに「貧困な者は身の程を知れ」という世の中のバッシングに怯えながら暮らす日々を綴ったエッセイ。
著者のように、貧困家庭で育った人たちが貧困の苦しみを書くと、批判やバッシングが多く来るという話をよく聞く。世の中の人たちは、貧乏な環境から成功者になった人たちの物語は大好きなのに、貧乏な環境から抜け出そうと奮闘している人たちには、冷たいのはどういうわけなんだろうか? 「貧困な者は身の程を知れ」とは、どんな人たちが言うのだろうか? 親族なのか、同世代の人たちなのか、それとも年上、年下世代なのか?
いわゆる親ガチャ、環境ガチャを乗り越えるのは本当に大変、と私もそうは思う。でも30歳を超えたら(著者はたぶん、今30歳前後)、自分の貧困を社会や政治や生まれた環境のせいにしないほうがいいのも、私の経験からは言える。なぜなら、親や社会のせいにしたところで、運命は決して好転しないからだ。
そして一方で、貧困に苦しんでいる人たちを批判・バッシングする行為は、そういった批判・バッシングは自分に影響することも私たちが知っておくべきことだ。『怠け者の悟り方』(タデウス・ゴラス著)から引用すれば:
〔今、あなたがある人に、「必要以上の援助を君は受け取るべきではない」と言ったとします。相手はあなたにそう言われても、どうということはありませんが、あなたは自分の言葉に縛られてしまいます。あなたは人から必要以上の援助を受け取れなくなるのです〕(p44)
さて、『死ねない理由』の中で、彼女は、最近は、自分の好きなことにお金を使ってもいいんだと思えるようになり、好きな音楽家のコンサートなどに行っているという。そして、そういった「推し活」(自分が好きな人たちを応援する活動)が、自分が「死ねない理由」になっているとも。著者には好きなことをたくさん見つけて、生き続けてほしいと思う。
『愚道一休』木下昌輝(集英社)
室町時代の禅師一休(1394~1481)という人は、酒と女を愛した破壊僧というイメージ、そして、子供の頃から頓智とユーモアにあふれていた明るい人というイメージが強い。しかし、本書で描かれている一休は、後小松天皇(1377~1433)の落胤(らくいん)という複雑な血筋を背負い、仏道を深刻に求道する暗い一休である。「無漏の悪と無漏の善」をめぐる一休と彼の友&敵たちの会話が興味深い。
(無漏=仏道で「悟りの境地」)
*本書で紹介されている一休の歌
嘘をつき地獄に落つるものならば無き事つくる釈迦いかがせん
(嘘をついて地獄に堕ちるというなら、嘘ばかり並べ立てた釈迦はどうなるのだろうか)
今動画で紹介している、U.G.クリシュナムルティも「仏陀はウソつき」(笑)と言っている。
『修道士カドフェルシリーズ』エリス・ピーターズ(光文社)
私にとっては、ミステリーが面白いかどうかは、探偵役の人物が好きになれるかどうかにほとんどかかっている。
本シリーズ(昔途中まで読んでいた)では、12世紀のイングランドのある地域にある修道院を舞台に、そこで起こる数々の事件を鮮やかに推理するカドフェル修道士がとても魅力的だ。カドフェル修道士は、若い頃は十字軍遠征に出かけて、あちこちを旅してまわり、現在は、修道院で薬草を育て、いわばお医者さん的仕事をしている。聖俗の両方の智慧を合わせもつ彼は、政治、経済(金銭問題)、身分制度、男女関係の複雑さを読み解き、事件解決に奔走する。修道院という小さな世界にも、現代の人々がかかえるのと同じような問題がすべてあることに驚かされる。
最近の私の娯楽は、『修道士カドフェルシリーズ』の小説を読んでから、イギリスで昔テレビ放映されたこのシリーズをネットで見ることだ。
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
U.G.クリシュナムルティ『悟りという謎』 ― 2025年04月01日 10時30分12秒
[新刊発売お知らせ]
*『自己覚醒へのマスター・キー』(シュリー・シッダラメシュヴァール・マハラジ 著、
ナチュラルスピリット発行)発売。
ナチュラルスピリット発行)発売。
ニサルガダッタ・マハラジの師の本、初邦訳!
価格:本体1800円+税
ページ数:176ページ*『頭がない男』電子版が販売開始!
価格:1,980円(税込み)
知られざる天才哲学者、ダグラス・ハーディングの生涯と哲学をイラストと文章で描いたグラフィック伝記。
[ お知らせ]
先日より、YouTube で、U.G.クリシュナムルティ(1918 ~2007)の『悟りという謎』(原書タイトル「The Mystique of Enlightenment」の翻訳を公開している。
U.G.クリシュナムルティはこのブログで過去に一度だけ話題にしたことがあり、そのときも書いたが、インドの賢者で私が好きな3人の一人だ。
もう一人のクリシュナムルティ――U.G.クリシュナムルティ(2014年11月23日)
有名なJ.クリシュナムルティのほうは、若い頃5年間、熱心に読んだものの、相性がそれほどよくなかったせいか、正直にいって、彼にはあまり親近感がわかない。しかし、なぜか、U.G.クリシュナムルティには親近感がわき、一時期熱心に彼の本を読んだものだ。本当は紙の本を企画すればいいのだけれど、もう新たに紙の本を企画するだけの体力と忍耐が、年々減少している(紙の本は企画してから、完成までに数年の時間がかかる)。
幸い、彼の本には著作権がない(彼のすべての本に、「自分の教えには著作権がない」ことを公言するU.G.の言葉が掲載されている)ので、このたび、長年読んだ、「The Mystique of Enlightenment」の翻訳を公開することにした。
改めて彼の本を読むと、彼の存在、言葉から一番伝わってくるのは、「怒り」だ。いわゆる賢者の中で、これほど怒っている人も珍しい。何に対する怒りだろうか? 大きく言えば、つまらないものをありがたがっているインド的霊性への怒り、自分の話は役に立たないと言っているのに、自分の話を聞こうとやって来る人たちへの苛立ち、そして、ひょっとしたら、子供の頃に強制的に学ばされた宗教教育にも怒っているのかもしれない。
彼は、20代の頃、自分以上に悟りを得るために努力した人はいないはずだと思っていたくらいだから、幼少期から10代の頃、それはものすごい修行をした(させられた)のだろうと想像する。子供の頃にイヤイヤ強制されたことは、大人になってから怒りがわくほどのトラウマを残すことがあり、私にもいくつかイヤな思い出(私の場合は、先生に強制されたこと)がある。
そんなU.G.クリシュナムルティが語ることなので、彼が語ることが何かに役立つというより、彼の話はすべて、「悟りや解脱を求めるすべての探求者がやっていることは、すべて無駄」、「グルも役に立たず、他人の話も役に立たない」、そして、「自分に起こったこと(49歳のときに、彼自身は「災難」と呼ぶ、強烈な覚醒体験が起こった)は、探求とはまったく無関係」という身も蓋もないところへ収斂していく。
彼は、彼の本を出版したいという人たちにこう言ったと伝えられている。「私の教えを広めるためではなく、金儲けのために本を出版しなさい」。
最後に、「The Mystique of Enlightenment」という本のタイトルについてであるが、直訳すれば、「悟りという神秘」くらいだが、「悟りなどというものはない」、「神秘などはない」と彼が語っていることとは真逆なタイトルで、いかにも本を売るためにつけたタイトル(笑)。
本当は、本書につけるべき正しいタイトルは、「The Mistake of Enlightenment」(悟りという間違い)くらいであるべきで、YouTube のタイトルも、大胆に誤訳して、「悟りという間違い」にしようかと一瞬思ったのだけれど、妥協して、『悟りという謎』にすることにした。たぶん、彼の言葉はほとんど役に立たないだろうし、また私が最後まで、「The Mystique of Enlightenment」の訳を公開できるかどうか(そこまで体力がもつかどうか)未定であるが、興味が湧きましたら、視聴ください。
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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「ディストピア」と「ユートピア」 ― 2025年02月05日 09時20分15秒
[ イベント]
◎リアルの会「非二元の探究――主体を科学的に探求する」(東京都文京区)
2025年3月2日(日曜日)午後12時45分より午後3時半頃まで
2025年3月2日(日曜日)午後12時45分より午後3時半頃まで
◎オンライン「非二元の探究――主体を科学的に探求する」
2025年2月23日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
[ お知らせ]
昨年末に話題にした本、『三体』の続き、『三体Ⅱ(暗黒の森)上・下』(劉慈欣著 早川書房)を超走り読みした。いわゆる「ディストピア」(暗黒郷)のジャンルに入る本で、三体文明が地球に迫ってくる暗い未来の地球が描かれている。地球が暗いだけでなく、すべての文明、宇宙全体が暗い「暗黒の森」であると教える内容になっている。
なぜ「暗黒の森」なのかと言えば、下記の宇宙文明の二つの公理によって、
1.生存は文明の第一の欲求である。
2.文明はたえず成長し拡張するが、宇宙における物質の総量はつねに一定である、
「ここにいるよ!」と叫んで自分の存在を曝す生命(=文明)は、別の狩人(=文明)によって消滅させられるからだ。
つまり、この公理の意味とは、宇宙の物質の総量(=使える資源)は限られているので、文明同士は常に相手を滅ぼそうと待ち構えている狩人のようなものである。だから、文明は自分たちの宇宙における位置が知られることを何よりも恐れている。それが、人類が他の異星文明に「出会わない」理由であると。
そして、人類が宇宙の本質が黒暗森林であることに気づかなかったのは、人類に愛があるからだという。そして、最後の最後に、第Ⅰ部に登場した地球文明を愛している三体文明の監視員が再び登場し、三体文明にも愛はあるのだが、生存戦略に役立たないので抑圧されてきたと語る。
と、最後まで読むと、「愛があるなんて、人類って案外、いい生き物じゃないか」(笑)と思えるから不思議だ。
小説家、作家、文学はどちらかと言えば、「ディストピア」(暗黒郷)を描くほうが好みというか、彼らのマインドは人間の一番暗い想念を吸収することに長けている。そして、一般的には暗い話のほうが物語の展開としては面白い。最近も、「出産」をテーマにした別の「ディストピア」の本を読んでみた。
少子化が止まらない日本で、10人子供を産んだら、一人を殺してもいい「権利」を得る社会を描いた『殺人出産』(村田沙耶香著)(講談社)。同じ著者の『コンビニ人間』にはまだユーモアがあったが、『殺人出産』には救いがない。たぶんこれほど極端なシステムは実現しないだろうが、日本という国が人口減少で、国家存続の危機ともなれば、(強制とまではいかなくても)若い女性たちに出産を強く奨励するシステムは将来的にはありうるかもと、想像した。なぜかといえば、宇宙公理第一、「生存は文明の第一の欲求である」を国家に当てはめれば、「生存は国家の第一の欲求である」とも言えるからだ。
「ディストピア」(暗黒郷)の反対に、「ユートピア」(理想郷)という言葉がある。私の長年の読書と見聞によれば、スピリチュアル系の人たちは、「ユートピア」(理想郷)がこの宇宙のどこかにあると考えるほうを好む。どこかに「完全なる愛と平和」が実現している惑星があるのではないかと。スピリチュアル系の人たちが好む異星人ジャンルの本には、愛と平和を実現している異星人がたくさん登場して、地球を優しく見守っているという話がたくさん描かれ、小説『三体』とは正反対の宇宙像を提供している。
さて、宇宙は「暗黒の森」なのか、それとも「愛の森」なのか……
たぶん、私が思うには、「ディストピア」(暗黒郷)も「ユートピア」(理想郷)も一人一人が、あるいは特定の地域が経験する世界にしか存在しない。どんな時代のどんな瞬間にも、世界には、いや宇宙には、「ディストピア」(暗黒郷)と「ユートピア」(理想郷)を経験している存在(人類だけでなく異星人も含めて)がいるだろうし、そして地域があるにちがいない。
私にとっての「ユートピア」とは、大昔からずっと同じで、「ユートピア」とは熟睡しているとき、そして瞑想などで、マインドの活動が止まるとき。それが私にとっての「ユートピア」である。そして、最悪の「ディストピア」の時期は、たぶん20代前半の頃だったと思う。その時期はまさに「暗黒の森」という言葉がぴったりの時期だった。最近の一番ひどい「ディストピア」は、真夜中に快適な熟睡が突然に妨害されて、動きまわる母を追いかけては叱りつけて、何度も寝せようとするときだろうか……真夜中に人を叱りつけるなんて最低最悪の気分になる。
20世紀科学界の賢者、アインシュタインは、「神は微妙で奥深いかもしれないが、意地悪ではない」という言葉を残している。もし神が意地悪でなければ、神の作った宇宙も意地悪ではなく、宇宙は暗黒の森ではないだろうと推測できる。またダグラス・ハーディングも、「世界の背後にあるパワーは愛である」という言葉を残している。
そして、いちおうスピリチュアル系に属している私としても、20世紀の賢者たちの言葉に、宇宙は全体としては「暗黒の森」ではないほうに、人生を賭けている。真夜中に「ディストピア」を経験しているときでも、それも「愛かも」……しれない。
[一昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
販売サイト
Master Key to Self-Realization (4) ― 2024年10月21日 09時39分07秒
[お知らせ]
(Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)の出版スケジュールは現在、まだ未定です)
本書の中で、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジの教えの説き方は、登山にかなり似ている。彼は、下記の各ボディを肉体から一歩一歩ゆっくり絶対まで登る行程を詳細に説明する。
グロス・ボディ(肉体)
サトル・ボディ
コーザル・ボディ
グレート‐コーザル・ボディ
絶対
サトル・ボディ
コーザル・ボディ
グレート‐コーザル・ボディ
絶対
本書の中のグロス・ボディ(肉体)の話は、たぶん常識で理解できる。ただ、20世紀前半のインドの文化・社会を背景にした話なので、かなり男尊女卑的に感じられたり、日本人にはたぶんピンとこない話もある。
それから、サトル・ボディは、基本的には、思考・感情、そして感覚を司ると考えられるので、ここもある程度は普段の経験から理解できるだろうと思う。
本書の一番の難所だと思うところは、コーザル・ボディの説明だ。ここはかなりわかりにくいし、シッダラメシュヴァール・マハラジもここが難所であることを認めている。なぜなら、私たちの人間的思考、人間的知性は、コーザル・ボディを捉えることができないからだ。
サトル・ボディの活動が収まるとき、コーザル・ボディへの入り口に到達したと言えるが、では人が自分はサットル・ボディを超えて、コーザル・ボディに入っていると理解する目安は何だろうか?
私の理解によれば:
*瞑想などで思考・感情が静止する経験をする(=サットル・ボディが静まる)
*「自分は本当は何も知らない」という理解が湧く。
*自分の思考・感情・理解に執着しない。
以上のような状態を経験するとき、人はコーザル・ボディという難所に足を踏み入れたと理解してよいと思う。
私たちがサトル・ボディに自分の本拠地を置いているときには、「自分は本当は何も知らない」という理解は決して生まれない。自分の見方・考え方・知識が絶対に正しいと思う人たち、「自分がたくさんの物事を知っている」ことにプライドをいだく人たちは、自分の思考ですべてを理解できると思う人たちはコーザル・ボディに入ることはできない。
シッダラメシュヴァール・マハラジは、多くの求道者たちはコーザル・ボディまで到達して、そこから先は何もないと思い違いして、引き返す人たちが多いと警告する。たぶん、その警告は、「思考・感情」が静止したときの平安,いわゆる、「禅定」、「サマーディ」に安定できるいわゆる「瞑想者」たちに向けられている。
それから、コーザル・ボディについて言及すべきことは、コーザル・ボディは、ボディ(肉体)とサットル・ボディの生みの親(それゆえコーザル=原因、という名前がついている)であり、ボディ(肉体)とサットル・ボディはコーザル・ボディの道具である、ということだ。
しかし、コーザル・ボディは非二元形而上学登山の頂上ではない。さらにそのあとにグレート‐コーザル・ボディの領域、そして、絶対を残している。
ここから先の領域の説明は、本書にゆずるとして、私たちの日常生活での認識は、実は、登山の下りであることを理解することは重要だし、本書でもそのことに言及されている。
つまり、探求は下記の順番で一般的にはおこなわれる:
グロス・ボディ(肉体)
↓
サトル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
↓
サトル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
絶対
しかし、私たちの日常生活の認識は、下記の順番で降りて来る。
絶対
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
サトル・ボディ
↓
グロス・ボディ(肉体)
↓
グレート‐コーザル・ボディ
↓
コーザル・ボディ
↓
サトル・ボディ
↓
グロス・ボディ(肉体)
たとえば私たちが、自分が見ている世界に、何かを認識するとしよう。たった一つの認識、「あ、〇〇がある」というその平凡な認識さえ、絶対からグロス・ボディのすべてが関わっている。その下降はもちろん、光速よりも速く、というより、無時間で降りて来る。
このことは考えてみるに、本当に「奇跡的」なことだ。非二元系の教えで、第一の「奇跡」とはこのことであり、ニサルガダッタ・マハラジやダグラス・ハーディングはこの「奇跡」をよく話題にした。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ
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Master Key to Self-Realization (3) ― 2024年07月01日 06時48分21秒
ケロケロ様
[Master Key to Self-Realizationの発売予定は、現時点ではまだ未定です。たぶん、今年中には発行されると思いますが……]
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年7月14日(日曜日)午後2時から午後4時頃まで
2024年7月25日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究――非二元的認識から生まれる豊かさについて」
[お知らせ]
Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)は、非常に短い本(原書で、約100ページ)なので、私がこのブログであまり内容を紹介しすぎると、皆さんに購入していただく意味がなくなる(笑)ので、各ボディについての詳細に興味がある方は、ぜひ購入していただければと思う。
私が本書の中に書かれている内容で、「ああ、そういうことか」と初めて知ったことは、インドの悪名高きカースト制度の起源である。本書の中のある章に、「一人の人間の中で、カーストを経験する」という項目がある。実は、インドのカースト制度の起源とは、現在のように、肉体がどこの家庭や家柄に生まれたかという外側の問題ではなく、一人の人間の中のそれぞれのボディにつけられた別称なのである。
カーストには、基本的にバラモン(司祭)、クシャトリヤ(戦士)、ヴァイシャ(商人)、シュードラ(労働者)があるが、それをそれぞれのボディに当てはめれば:
グレート‐コーザル・ボディはバラモン(司祭)・カースト、
コーザル・ボディはクシャトリヤ(戦士)カースト、
サトル・ボディはヴァイシャ(商人)カーストであり、
グロス・ボディはシュードラ(労働者)カースト、
コーザル・ボディはクシャトリヤ(戦士)カースト、
サトル・ボディはヴァイシャ(商人)カーストであり、
グロス・ボディはシュードラ(労働者)カースト、
ということになる。
だから、人がグロス・ボディ(肉体)と自分を一体化していれば、その人の意識状態は、シュードラ(労働者)カーストに属し、サトル・ボディと一体化していれば、ヴァイシャ(商人)カーストに属し、コーザル・ボディと一体化していれば、クシャトリヤ(戦士)カーストに属し、グレート‐コーザル・ボディと一体化していれば、バラモン(司祭)・カーストに属している、ということになる。
このように、インドの古代ヴェーダの本来の教えによれば、カーストは、肉体の生まれや家柄とは無関係、つまり、今、流行の言葉で言えば、家柄ガチャとは無関係なのに、それを外側の固定的階級制度にしてしまったところに、現在まで続くインドという国の不幸がある――インドには、さらにカースト外の不可触民、「ダリッド」と呼ばれている人たちがいる。
本当であれば、人を解放するはずの宗教的教えが、人々を束縛し、不幸にするのは、何もヒンドゥー教に限らないが、人間マインドが、どれほど階級制度が好きなのか、いつも驚くばかりである。
たぶん、人間精神の奥深くに、誰の中にも、「上(の階級)へ行きたい」という超越へのあこがれ、野心(願望)のようなものがあるのだろうと、私には感じられる。そして、その野心(願望)が間違って、外側に向けられると、それは宗教ではなく、「政治」、他者とのかぎりない階級競争となり、その結末は、不幸、みじめさ、憎しみ、恨み、つらみである。
しかし、そのあこがれ、野心が正しい方向、つまり、内側に向けられ、内なる階級が理解できれば、本書が説明するように、それは究極的には人を解放する教えとなる。
真正なスピリチュアルは、どんな家柄、生まれ、人種であれ、すべての人にカースト(ボディ)からの解放の可能性を約束している。本書の中では、グレート‐コーザル・ボディ=バラモン(司祭)・カーストさえ、最後に超越すべきものとして語られている。
ボディの階級を上り、最後にはそれさえ捨てる。それがアドバイタの教えが語る最高の野心であり、ニサルガダッタ・マハラジはその野心を次のように語っている。
「あらゆる人が死ななければならない。だったら、自分の本質として死になさい。なぜ肉体として死ぬのか? 自分の本質を決して忘れないようにしなさい。そのことは多くの人たちには受け入れられないかもしれないが、それが事実だ。もしあなたが野心をもたなければならないとしたら、最高の野心をもちなさい。そうすれば、少なくとも死ぬ最中に、あなたは絶対になることだろう」『意識に先立って』p195(ナチュラルスピリット発行)
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
販売サイト
*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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Master Key to Self-Realization (2) ― 2024年06月15日 08時17分04秒
[お知らせ]
Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)は、ちょっとミステリーふうな仕立てになっている。つまり、謎めいた「私」を探すために、人間を構成する様々な体(ボディ)を、粗雑な体(グロス・ボディ)から、精妙な体(グレート・コーザルボディ)へと、順を追って調査しながら、究極のパラブラフマン(絶対)に至る道筋を明らかにする。
もし本書の方法が成功するなら、最後に探求者に、「絶対」である「私」が明らかになることになっている。
本書で語られているボディの種類は下記の4種類であり、第一の体から、順番に第四の体まで詳細な説明がなされている。
第一の体――グロス・ボディ
第二の体――サトル・ボディ
第三の体――コーザル・ボディ
第四の体――グレート‐コーザル・ボディ(トゥリーヤ)
第二の体――サトル・ボディ
第三の体――コーザル・ボディ
第四の体――グレート‐コーザル・ボディ(トゥリーヤ)
ここで注意すべきことは、もし読者の皆さんが今まで、他の教え、他の本で、こうした目に見えない体(ボディ)に関する秘教的知識を読んだことがあるなら、本書での説明・分類は、他の教え、本とはかなり異なるかもしれない。
たとえば、私が昔読んだ本では、本書でいう第二の体――サトル・ボディをさらに、感情体(エモーショナル・ボディ)と思考体(メンタル・ボディ)に分けてあるものが多く、私の中にもいまだ、感情体(エモーショナル・ボディ)と思考体(メンタル・ボディ)という観念が根強く残っている。
思い出すに(かなり昔に読んだ本なので記憶があいまいであるが)、ヒーリング関係の本が多かったと思う。しかし、本書はヒーリングの本ではなく、あくまでも、私とは何か? 私の本質とは何か?を探求することが目的の本であり、本書での体(ボディ)の説明もその目的にそっている。
私が本書を読んで、一つ不思議に思ったことは、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジの主要な弟子であるニサルガダッタ・マハラジの講話には、私が読んだかぎり、こういった目に見えない体(ボディ)への言及がほとんどないことだ。
『アイアムザット私は在る』(ナチュラルスピリット発行)には多少言及があるが、最晩年の『意識に先立って』(ナチュラルスピリット発行)にはまったく言及がない。では、ニサルガダッタ・マハラジの弟子である、ラメッシ・バルセカールはどうかと言えば、初期の頃の著作に目に見えない体(ボディ)を詳細に説明した章があるが、私が読んだかぎりでは、それ以外の講話、本の中で、ラメッシも体(ボディ)の話をしていない。
それはどうしてなのだろうか?
その答えはたぶん、『意識に先立って』から読み取れば、マハラジの帰依者たちは、そういった目に見えない体(ボディ)のことはすでに宿題として学び終えているべきことなので、最晩年の講話の中ではあえて、説明しない(説明している時間がない)というのが、マハラジの考えだったようだ。
だから、『意識に先立って』、そしてラメッシがマハラジの教えを解説した本、『ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの』(ナチュラルスピリット発行)では、第二の体、サトルボディと第三の体、コーザル・ボディの話はまったく出てこなくて、第四の体―グレート‐コーザル・ボディ(トゥリーヤ)(IAM)から、絶対へ至る話のみをほとんど語っている。
マハラジは、第一の体(グロスボディ=肉体)と第四の体―グレート‐コーザル・ボディが理解できれば、その中間の体に関する知識は自ずと湧きあがるだろうと考えていたのかもしれない。
まあ、ニサルガダッタ・マハラジがどう考えていたにせよ、本書の中では、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジは、すべての体(ボディ)を時間をかけて調査し、完全に理解することが重要だと強調している。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
目次の詳細は下記へ。
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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Master Key to Self-Realization (1) ― 2024年05月28日 09時20分00秒
[お知らせ]
今回より、今年出版が予定されている本、Master Key to Self-Realization(自己覚醒へのマスター・キー)を紹介したい。
本書は、ニサルガダッタ・マハラジの師、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジ(Shri Siddharameshwar Maharaj 1888–1936)の講話を弟子たちがまとめた本で、最初はマラーティー語で出版され、そのあと英語版が出版された。
本書によれば、シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジは、インドのインチャギリ・サンプラダヤ派の二代目のグルで、さらにこの教えはインドのマハラシュトラ州(中心都市ムンバイ)に伝統的に伝わる教えの系譜に所属している。本書の中では、マハラシュトラ州で活躍した過去の聖者、特にシュリ―・サマールタ・ラムダスとトゥカラムがたびたび話題にされている。
そういった過去の聖者への敬意と崇敬には満ちているものの、本書は決して堅苦しい本ではない。シュリ―・シッダラメシュヴァール・マハラジが非常にユーモアと科学的態度をもった人であることがうかがえる本だ。私は本書によって初めて、シッダラメシュヴァール・マハラジについて詳しく知ったが、彼のユーモアと科学的態度、そして、原書表紙に掲載されている彼の写真に写し出されている少年のようなほほ笑みに好感をもった。
本書の序文によれば、師の死後、シッダラメシュヴァール・マハラジは他の弟子たちと一緒に、師の教えを広める旅に出た。その旅の途中、師の教えを伝えることに関して、彼に一つの疑問が湧き起こり、それを仲間の弟子たちに伝えたところ、仲間からは強い反発を受け、彼も自分の考えをその場では撤回した。
その彼の疑問とは、師の教えを伝えるために、瞑想以外の方法はないのだろうか? 瞑想は非常に多くの努力と時間を要する。自分の本質に目覚めるという目的に到達する、もっと早い道はないのだろうか? というものだった。彼は以上の疑問を他の仲間の手前、撤回はしたものの、旅の途中で仲間たちと別れ、自宅に戻り、また一人で瞑想を続け、最終的な覚醒に至った。
それ以後、彼は瞑想に加えて、「鳥の方法」、つまり、自分自身を論理的に調査・考察する方法を弟子たちに教え始めた。「鳥の道」と呼ばれるのは、それは時間がかからない方法であるからで、それに対して、従来の瞑想を中心とする方法は、「蟻の方法」と呼ばれている。
本書は、シッダラメシュヴァール・マハラジが「鳥の方法」と呼んでいる、自分自身を論理的に調査・考察する方法の詳細を語った本である。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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賢者たちの考え方と表現の違い ― 2024年05月01日 09時44分54秒
[イベント】
◎リアルの実験会「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年5月7日(火曜日)午後1時半から午後4時半頃まで
場所:東京都新宿
◎オンライン「私とは本当に何かを見る実験の会」
2024年5月16日(木曜日)午後2時から午後4時頃まで
◎オンライン「非二元の探究――「主体」として生きる」
[お知らせ]
先日、ニサルガダッタ・マハラジなどのインド系の賢者と、トニー・パーソンズの教えの違いについてのご質問をいただいた。
私の理解によれば、それが真正の非二元系(ノンデュアル、アドヴァイタ)の教えであれば、古代のイエス・キリスト、仏陀から、現在の様々な賢者たちにいたるまで、本質的には、皆さん同じ真理を教えているはずである――「すべては一つであり、本質的には分離がない」
しかし、たとえば、愛を強調する新約聖書と空(くう)を強調する般若心経を読んで、両方が同じことを言っていると理解するのは、けっこう大変なことだと思う。あまりに言葉の表現が違うからだ。
そして、その言葉の表現が違い、それを様々な人たちが解釈するゆえに、時代を経るにつれて、いわゆるそれぞれの宗教はお互いに相い入れないまったく別の物となり、平和を説く宗教が皮肉にも、いつの時代でも戦争の種となっている。
私たちが現代の非二元系の賢者たちの言葉を読むときも、表面的な表現の違いではなく、彼らが共通して伝えようとしていることの本質を理解する必要がある。そして、彼らが説いている真理の本質は同じであっても、では、その真理をどうやって理解するのか(認識するのか)に関する方法論については、かなり異なっている。真理に至る方法論をすべて否定する賢者から、瞑想、グルへの帰依を強調する賢者から、またハーディングのようにグル‐弟子関係を無価値なものとして否定して、一人で手軽にできる実験を開発した賢者もいる。
彼らの言葉や考え方が多様なのは、彼ら自身の生まれつきの気質、育った環境、文化・時代、そして彼らが話しかけた人々が異なるからである。そして、そういった賢者の言葉を聴いたり、読んだりする人たちの気質、育った環境・文化も様々である。現在では、世界各国のあらゆる教えを読んだり聴いたりできるという状況にはあるが、最終的には、自分と相性のよい少数の賢者(本や言葉)を選ぶというのが、賢明なことだと思う。
それと少し話が横道にそれるが、有名な賢者の皆さんは、お互いをほとんど認めないことがよくある(笑)。私が若い頃、J.クリシュナムルティとオショー(ラジニーシ)の間の相互批判は、オショーの弟子たちとJ.クリシュナムルティの信仰者を巻き込んで、けっこうな騒動であったし、J.クリシュナムルティともう一人の有名な賢者、U.G. クリシュナムルティの間の確執も、インド系スピリチュアル業界では有名な話だった。
ダグラス・ハーディングにも、J.クリシュナムルティの教えを批判的に書いたエッセイがあり、また彼が、U.G. クリシュナムルティやラメッシ・バルセカールの教えに関して否定的なコメントをしているのを、私は読んだことがある。
つまり、有名な賢者の皆さんも、物事への好き嫌いがけっこうあったり、教えに関して頑固だったり、文化的時代的偏見だってもっている。私が非二元系の賢者の本を読むときは、彼らの個人的好き嫌い、時代的文化的偏見は、重要じゃないものとして、基本的に無視(笑)して読んでいる。
最後に、読者の皆さんには、非二元系の翻訳本をたくさん買っていただいて、改めてお礼を申し上げます。もしたくさん読みすぎて混乱している方がいれば、先ほども書いたように、相性のよいものを少数選んで、繰り返し読むことをお勧めします(その他の本は古本に出してもいいし、本棚に余裕があれば、いつか読むためにとっておいてもいいかもしれない)。
[昨年出版された本]
[その他の本]
*『仕方ない私(上)形而上学編――「私」とは本当に何か?』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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*『仕方ない私(下)肉体・マインド編――肉体・マインドと快適に付き合うために』アマゾン・キンドル版(税込み定価:330円)
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