ピッタリな人生
2008-10-04


前回に引き続いて、自分の夢や目標を実現することについて書いてみよう。

私は若い頃から、自分も含めて色々な人を見て、「自分の夢や目標、あるいはやろうとしたことが実現しない」のは、それは、たぶん、人が「自分に合っていない夢や目標を設定するためではないか」と思ってきた。

多くの人たちが、(自分が憧れる)他人や世の中の流行を見て、自分の目標や夢を決めている。スピリチュアルな世界に関心をもつ人たちも、それは例外ではない――あの人は、(「ソウルメイトがいて」、「ライフワークを得て」、「素晴らしい家に住んで」、「高い収入を得て」、「悟って」)幸せそうだから、「私」もあんな生活をしてみたい、あれを実現してみたい、というような――そこに、根本的な誤解があると、私は思っている。もちろん、職業に関しては、才能や適性があれば、他人に憧れて、同じ職業を目指してうまくいく場合もあるけれど、憧れから始まる多くのことは、たいてい挫折に終わる。

しかし、まあ、挫折することはよいことでもある。なぜかというと、そこで初めて、人は、自分が本当に人生に望んでいるものは何なのかを、真剣に考えるからだ。

さらに、夢や目標について、多くの人たちが考えてみないもう一つのことは、それは、夢や目標とは、それを実現するプロセスにも、それが実現したあとも、喜びだけでなく、苦労・苦痛も伴うものだ、ということである。

不思議なことに、スピリチュアルな世界に関心を持つ人たちほど、苦痛(苦労)のない現象、いわゆるニルバーナ(涅槃)のような現象が、どこかに見つかるはずだという強固な幻想をいだいている。現象の世界――そこでは、何を実現しても、喜びと苦痛(苦労)がセットなのだ。

だから、人生の苦労や苦痛をできるだけ味わいたくない人は、夢や目標をもたないほうがいいのである――本当は。(前回話題にしたイチロー選手は、野球のことでいつも人一倍「苦しんでいる」ようであり、また多くの金メダリストたちは、金メダルをとったあとのほうが、もっとたくさんの苦痛を味わっている)

喜びがあるだけでなく、苦痛・苦労にも耐えられること、苦労・苦痛がある種の喜びとなることこそ、その人の本当の夢・目標ということで、実のところ、それは願ったり、特別なワークをしたりしなくても、ふさわしい時期になれば、実現とは、宇宙(神)のほうから自然に与えてくださるものなのだ。というか、そういうふうに、プログラミングされているようなのである。

宇宙(神)からプログラミングされていることは、どれほど苦痛だろうと、苦労だろうと、人は達成するように運命づけられている。おかげで、私のようなナマケ者でも、半世紀以上を、とりあえず、多少は何かをやって生かされている。

自分の人生を振り返ってみても、「苦労・苦痛にも耐えられる経験・目標」は自然に簡単に手に入ったと思うし、望んでも実現しなかったことは、あとで考えてみれば、とうてい自分の心身に向かないことだった。

で、私だけでなく、誰にとっても、今、目の前に展開している人生が、宇宙(神)が自然に与えてくださった、自分にピッタリな人生だということである。目の前の仕事、家族、夫、妻、子供、親、社会、政治、その他何であれ、それが、今の自分(たち)にピッタリのもので(もちろん、明日には消える可能性も、変わる可能性もあるが)、そうでなければ、そこには、ないはずである。それは、自分にピッタリで、それがもたらす苦労や苦痛に耐えられる能力を、自分がもっているからこそ、そこにあるのである。

もしそれを否定する声――「こんなの私にふさわしくない、別の現実が欲しい」と言う声がしたら、それは、現実よりも上に立ちたい自分のエゴの声、プライドであり、(私は最近それを、little god =「小神」と呼んでいる)で、その声を信じると、「平和の国=天の王国」から、あっという間に私たちは追放されることになる。

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