皆様、暑中お見舞い申し上げます。くれぐれも心身ご自愛ください。
先日、私が主催したワークショップのあとで参加者の皆さんとお茶を飲んでいたとき、たまたま、情熱についての話が出た――情熱を喚起するような、情熱のスイッチをいれるような、何かノウハウ、方法があるのかと。
私の経験から言えば、情熱を喚起する方法、ノウハウはない、のである。情熱を定義するとすれば、それは誰かから教えてもらったり、学んだりするものではなく、気がついたら、自分がそれをやっている――それが情熱の正体であり、それは自分の中から自然に出てくるもので、コントロールすることも、学ぶこともできない。
情熱は、あるときには、あるし、ないときには、ない。そういう単純なものだ。さらに、自分の夢や情熱を実現する既成の方法やノウハウもない、のである、本当のところは。情熱は自然に出てくるか、それともないかの、どちらかである。
世間は、スポーツ、ビジネス、自己啓発、芸術等の分野で、情熱をもってテンション高めで、外向きに活躍している人たちを称賛するものだが、彼らは少数だからこそ、称賛されるのである。何かを成し遂げた人たちからの、特に若者に向けた「夢をもちなさい」というメッセージはかっこよくはあるけれど、「夢をもて」と熱く言われたからといって、大きな夢や情熱が出てくるわけでもないのだ。
そもそも多くの人たちの情熱は、そんな派手なものではない。たいてい、人は小さい情熱(一般には趣味とか「好きなこと」、と呼ばれている)をいくつかもって、それを楽しんで平穏無事に生きている。
私が思うには、誰にとっても、情熱なんて、めったに出てこないものであり、人は、たいていのとき、たいていのことには、たいして情熱がないのが普通であろう。私にしても、若い頃から本日まで、本を読むこと(今はその情熱さえもかなり低下しているが)も含めて、わずかなことにしかやる気がない。たいていのときは、テンションが低い。
最近、ネットで、自己啓発系の専門家の方が、夢や情熱を実現することに関して、興味深いことを書いていた。それは、「自分は何々をやりたい、何々になりたい」と言う人に、「では、あなたはそのために、具体的に何をしていますか?」と尋ねると、「何もやっていないし、その方法がわからないのです」と言う人が多く、そういった人は、方法論だけを探し求めて、あちこちの自己啓発セミナーを渡り歩くけれども、夢の実現からはほど遠い、という主旨の話である。もし方法が自分の中から出てこないのであれば、それはその人の本当の情熱や夢ではないだろうし、たぶん、こういう人たちの場合、方法論収集が最大の情熱であるともいえる。
方法論中毒―それは私にもあてはまったことだ。私は難解な哲学、宗教、科学の本と同じくらい、一時間程度で読めるあらゆるジャンルの実用書、ビジネス本、ハウツー本を愛読していた頃がある。今だって、時々は読むこともある。が、本で語られている方法を実際は、ほとんど実践したことがない(笑)。で、あるとき私はやっと理解した。私の情熱は、何かになりたいわけでもなく、何かを実現したいわけでもなく、ただ座って本を読んで、色々なことが知りたいだけ、なのだと。
他人から見れば、座って本を読むなどというのは、たいした情熱だと思えないだろうし、自分から見ても、それが情熱だとは長い間気づかなかったが、私の人生はその私の情熱を支援し続けてきたし、結果的にはその延長で、仕事もしてきたわけである。
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