「No」を言う練習
2013-11-01


一般的に言って、日本人は、「No」を言うのが苦手な人が多い。つまり、内心ではイヤだと思う頼まれ事をつい引き受けてしまい、引き受けてしまったあとから、愚痴を言いながらやってしまうパターンに陥る人たちが多い。

内心ではイヤだと思う頼まれ事は、引き受けないのが一番よいことであるのだが、人間関係によっては、「No」を言うのが難しいこともよくあるものだ。「No」は言いたい、でも人間関係も悪くしたくないという微妙な状況の中で、あれこれ考えることが、ストレスを倍増させる。

人間関係の中で、片方の人が、あるいは集団の中で誰か一人だけが、極端に重荷を押しつけられているのは、バランスの悪い状態で、関係が機能していない状態である。職場であれば、それは仕事の効率を下げ、家族間であれば、家族間の不和や問題を引き起こす原因となる。人間関係では、「快適さと喜び(利益)と苦労を分かち合う」のが、正しく機能する関係であると、私自身はそう思っている。

しかし、誰もが知っているように、相手に不満をもったり、内心非難したりしても、他人は絶対に変わらないものだし、そもそも他人を変えたいと思うことは傲慢である。「他人を変えることはできない」という言葉は、マントラにして一日百回も唱えてもいいくらいである(という話を先日のワークショップでも、私はしたばかりである)。

唯一できることは、相手に対する自分の反応と対応と理解を変えることだけで、その際の二つのキーワードは、「罪悪感」と「自己イメージ」である。

人に「No」を言えずに、ストレスがたまるという人の話を聞いてみると、「No」を言うことに非常に大きな罪悪感があり、さらにその元をたどれば、「自分はいい人である」 という自己イメージと、 「いい人でなければならない」 「他人にいい人だと思われたい」という願望が強すぎるという一般的傾向がある。

もちろん、対人関係の中でたいていは、私たちは「いい人」として行動するだろうけれど、自分の中味を正直に見てみれば、自分という人格は決して「いい人」だけでなく、いわゆるよい人格も悪い人格もあらゆる人格が、自分の中にはあるのが普通である。

人間の中にはあらゆる人格があり、あらゆる感情を感じ、あらゆる思考を考えることができることが、他の生き物(動物とか植物、あるいは天使とか悪魔とかチャネリングのエンティティのようなエネルギー情報体など)とは違う人間の美しさなのだ。

だから、本来は多様な人格があるのが普通であるときに、自分の中のある特定の人格だけに執着することで、自分にも周囲にもストレスを与え、「いい人でなければならない」  「他人にいい人だと思われたい」という願望そのものが、高圧的で鈍感な人たちを自分に引き寄せる磁石のような役割を果たすものである。

という以上の話は、人間関係で悩んでいる人たちにもたいていわかってもらえることなのだが、では、それを日常生活で具体的にどう実践するかの部分は、難しいことである。

つまり、今まで他人からの頼み事を全部引き受けていた人が、いきなりそれをゼロにはできないわけだし、「No」 を言うときに、罪悪感が全然なくなるなんてことも起こらないわけで、だから私がお勧めすることは、少しずつ練習することである。今まで十個イヤだと思うことを引き受けてきたなら、その中の一つか二つをまずやめてみる、断ってみる。それから、さらに別のことをやめてみる、断ってみる。  罪悪感がわいてもかまわずに、少しずつ、練習することである。  明るくさわやかに、そしてできるだけ相手に伝わる表現で、「No」 を言う練習を続けることである。


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[人間関係]

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