私の生家は浄土真宗の檀家で、今でも毎月お坊さんに来てもらってお経をあげてもらっている。私は昔から宗教行事に関心がなく、日本の宗教事情にも疎いので、自分の家の宗教が浄土真宗で、その浄土真宗の開祖が親鸞だと知ったのはそれほど昔のことではない。今は親に代わって、法事などを執り行い、年に数回、お坊さんのところへ挨拶に行く役目であるが、今も昔も誰も親鸞を話題にすることもなく、私の中では宗教行事は文化行事という位置づけである。
一方、親鸞は文化人には人気が高く、親鸞を熱心に読み、心のバイブルにしている方々はたくさんいるようである。先日、図書館に行ったとき、たまたま「芸術新潮」(2014年3月号)という雑誌を見つけ、その特集が「梅原猛が解き明かす親鸞の謎」であった。最近雑誌といえば、通販系の雑誌ぐらいしか読まないので、こんな思想系の高級な雑誌を読むのは本当に久しぶりだった。
雑誌の記事によれば、梅原氏(1925年生まれ。哲学者)は十代の頃から親鸞を愛読し、現在人生の最後を賭けて親鸞に取り組んでいるという。今回の芸術新潮の特集は雑誌の半分を占めるほど大がかりな記事で、梅原氏の意気込みが感じられる。氏は時間をかけて親鸞がたどった足跡を自ら旅し、関係者に話を聞き、親鸞の関係書籍を読みこみ、ずっと心にいだいていた親鸞の謎に迫っている。
私は親鸞の生涯や教えにすごく関心があるわけでもないので、記事は飛ばし読みでざっと読んだだけであるが、引用されている親鸞の言葉で、今作業を進めているConsciousness Speaks(意識が語る)の本の中のラメッシの言葉に主旨がよく似ているものがあったことに驚いた。
次のような親鸞と弟子の唯円の対話が紹介されている。
親鸞が「お前は私の命令に背かないか。背かないというなら、人を千人殺してみよ。そうすればおまえは必ず往生できる。どうだ」 と尋ねると、
唯円は「私は一人といえども殺せません」と答える。
それに対して親鸞は「千人殺すのも一人を殺すのもすべては因縁による。一人も殺さないのは人間がよいからではない。殺すべき因縁があって千人殺す人があり、因縁なきものは一人も殺さない」と言う。
Consciousness Speaks(意識が語る)では、 「すべては神の意志で、個人には本当は責任がない」という教えに疑問をもつ質問者がラメッシにこう尋ねる。
質問者:もし私が誰かを殺すとして、私は「私には責任がない」とただ言えるでしょうか?
ラメッシ:言い換えるなら、あなたが言っていることは、あなたが誰かを殺さないのは、あなたが逮捕され、刑を科せられるのがただ恐いという、ただそれだけの理由からだということです。そうなのですか?
質問者:
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