「トニ−・パーソンズ」-nothing being everything
2015-05-01


皆様、ご無沙汰していますが、春爛漫の楽しい季節をお元気でお過ごしのことと思います。

トニー・パーソンズの「nothing being everything」(邦訳タイトル未定、出版時期も未定ですが、たぶん6月から7月頃)も編集作業が終盤になりましたので、簡単な紹介ブログを書いてみたいと思います。


昔、私はトニー・パーソンズの本をもっていたようなのだが、一度も読むご縁がなく、本もそのうち見当たらなくなって、もちろんお会いしたことも、ビデオ等も見たことがなかったので、翻訳した本書が実質的にトニー・パーソンズとの最初の出会いである。

賢者には非常に読書家で博学で、講話や本の中で惜しげもなく様々な知識や引用を披露する(決して「誇って」という意味ではなく、話の自然の成り行きで)人たちがいる。その代表的な賢者は、ラメッシ・バルセカール、ダグラス・ハーディングである。一方で、自分の表現の中に他者の言葉を絶対に引用したり、言及したりしない人たちがいる。後者の代表には、私が若い頃読んだJ.クリシュナムルティ、そしてニサルガダッタ・マハラジがいる。J.クリシュナムルティはミステリーしか読まないことで有名だったし、ニサルガダッタ・マハラジは無学でほとんど文盲に近いと本人が言っている。

ノン・デュアル(非二元)の本としては、両方のタイプにそれぞれの欠点と長所がある。引用や知識が散りばめられている本は飽きずに読むことができるが、ノン・デュアル(非二元)にとっては、些末な引用や知識といった部分に気をとられて、賢者が言う本質から心がさ迷いやすくなる危険性がある。それに対して知識や引用が一切ない本は、賢者が語るたった一つの本質に集中しやすくはあるが、同じことがえんえんと語られるせいで、退屈が忍び込み、集中していると自分では思いながら、いつのまにか心がやはりさ迷う危険性がある。

トニー・パーソンズは明らかに後者のタイプだ。彼の話の中に、他の人や本の引用は一切なく、彼はワークショップ参加者の心を、ただ一つのもの、今ここで起こっている「生の感覚」(これが彼のメッセージのキー・ワードである)にだけ集中させる。トニー・パーソンズが言う「生の感覚」は特別な感覚ではなく、ごくごく普通の平凡な感覚のことである。今このブログを読んでいる皆さんが何を経験し、感じていても、それが賢者の方々が語る「それ」である。それでもほとんどの人たちの心は、彼が語る「それ」が今ここにはない特別な感覚だと誤解しがちで、そしてこう言うはずだ。「今私が感じているものは、平凡である。それの何が特別ですか?」と。

「特別な経験」を求める私たちの心はしつこい。トニー・パーソンズは今ここからさ迷い出て、特別な経験や物語を求める心を一つまた一つ撃ち落とし(原書編集者はその様子を「スキート射撃」の名手とたとえる)、心が行くべきところをどこにも残さない。

本書では、「これ」が「それ」であるという話が、トニー・パーソンズの簡潔で過激な語り口でえんえんと展開されていて、多くの賢者たちの言っていることが非常に簡潔に要約されている。なので、もしノン・デュアル(非二元)に関心のある読者の皆さんが、ダグラス・ハーディング、ラメッシ・バルセカール、二サルダッタ・マハラジなどの、分厚くて難解に感じられる表現の本を読むのに手こずっているなら、本書はお勧めである。


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