探求の終わり、そしてまた始まり
2016-11-22


 「シンプル堂さんは探求が終わったのですか?」と尋ねられたことがある。この質問への答えは、Yes でもありNoでもある。

振り返ってみると、私が二十代半ばに霊的探求を始めた頃、二つの目標というか望みがあったと思う。それは「平和と絶対的な真理」である。 私は、心の平和と永遠に変わらぬ真理、それが熱烈に欲しかったのだ。

幸い自分を導く教えと師のような方々(厳密に言えば、私は誰とも特定の師弟関係ではないし、グル-弟子という観念は自分には合わないと思っている) と巡り会い、 「平和と絶対的な真理」を知ることができた。しかし、「私は○○を知る」という表現も本当には正確ではない。 むしろ、どこに「平和と絶対的な真理」  があって、どこにないかを認識し、疑いが消え、確信に落ち着いたというのが一番近い表現だ。
 
以上述べた意味においては、「探求は一応終わった」と言うことができるだろうと思っている。しかし別の意味においては、それはシンプル堂と呼ばれている人間物体が死ぬまで続くものであるかもしれない。

ダグラス・ハーディングはよくこんなことを言っていた。

「神とは無限に未知で、無限に神秘で、それは一人の人間の一生で探求(研究)し尽くせるものではない」
彼は死ぬまで、「私」の本質である神を探求(研究)しつづけ、そして自分が発見したことをどうしたらよりよく伝えることができるかも研究し続け、「私とは本当に何かを見る」ための新しい実験やイラストをいつも考えていた。

私の場合は、仕事(翻訳と著作)のためにまだまだ色々と研究・探求することがたくさんあり、 そしてダグラスと同じく実験についても研究・探求している。だから、また新たなる探求・研究が始まったとも言えるかもしれない。でも、「探求・研究」という高級な言葉よりも、それはどちらかというと、シンプル堂と呼ばれている人間物体の余生の趣味・娯楽のようなものだ。

さて、今、来年出版が予定されているニサルガダッタ・マハラジのPrior to Consciousness(意識以前)の本の作業を開始している。10回以上読んだ本であるが、マハラジの言葉は一つ一つが奥深いので、作業しながら、彼の言葉に瞑想する日々である。彼もまた(もちろんお会いしたことはないけど)ダグラス・ハーディング、ラメッシ・バルセカールと並んで、私が深い敬愛の情と感謝を感じる賢者である。

最晩年の本書の中で、彼がよく言っていることは、世の中で普通に生きることの重要性だ。

「(物事の状態を正しい観点で)見て、自分の能力のかぎりを尽くしてこの世の中での自分の人生を生きなさい。」

「理解したら、何でも好きなことをやればいい」

 
まさにそういうことなので、シンプル堂は、他のことよりは多少は能力がある翻訳と著作をもう少しだけ頑張ろうと思っている。

「お知らせ」
ダグラス・ハーディングの新刊「存在し、存在しない、それが答えだ」(

続きを読む

[ハーディング]
[精神世界]

コメント(全2件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット