2007年に今のブログを開始したので、今年は10周年である。2007年は、ダグラス・ハーディングが亡くなり、そして世界経済がリーマンショックに揺れた年だったので、印象に残る年だった。
あの年にブログを始めたのは、超絶的な体調不良から少し回復し、何か新しいことを始めようという気力がようやく湧いたからだ。
あれから10年、適当に書き始めて、適当に書き続けて、今日に至っている。原稿料はどこからも出ないけど、締め切りもなく字数制限もないというこの気楽感と適当感が私は気に入っている。そして私が自分の仕事を宣伝する数少ない媒体でもある。
いつまで書き続けるのか、それは「神の意志」 なのでわからないが、そのときまで、これからも適当に書き続けていく予定なので、皆様にも気楽に読んでいただければと思う。
さて、最近私のキイワードは「自己満足」という言葉である。この安っぽいイメージの言葉がなぜか最近とても好きになっている――スピリチュアルなことにしても、世俗生活に関しても、小さい満足から大きな満足まで、すべては、他人がどう思おうと、自分が満足すればいいだけの話なのだということを改めて強く思うようになった。
「満足」とは、喜びの別名である。
私の場合、満足を感じれば、満たされる―満ち足りる――感謝が湧く
満足とは、私の場合はこんなものだ。
今日は料理がおいしくできた―自己満足
今日は体の痛みがゼロである―自己満足
今日も暖かいお風呂に入った―自己満足
難しい数学の問題が解けた―自己満足
母の好きな料理を作り、母が喜んだ―自己満足
コンサルティングでお会いした人と楽しく歓談した―自己満足
今日はブログが完成した―自己満足
風の中で枯れ葉が舞い散っているのを見て、とても美しく感じた―自己満足
主催した会が無事終わり、皆さんと楽しい時間を過ごすことができた―自己満足
本が完成し、出版された――自己満足 (但し、著作にしても翻訳書にしても、中味に関して完全に満足したことは一度もない。出版後にいつも、「ああ、ここをもっとこうすればよかった」というところが必ず出てくるものだ。でも、精一杯やったという満足はあるので、それは仕方ないとあきらめている)
最大の満足とは、
スピリチュアルな探求において、よき先生たち、よき教え、よき本、そしてよき環境に恵まれ、真理を確信できた―自己満足
自己満足―しかし、ラメッシ流に言えば、満足を感じるべき「自己」とは本当は存在していないので、実際は「満足感がただ起こった」という現象である。
日常会話の中で、「それは自己満足にすぎない」という批判的な言い方がよく為されるが、よく考えてみれば、「自己」満足以外にどんな満足もないのだ。
しかし、あるとき以上のような主旨の話をある人にしたら、では「自分は満足しているのに、自分がしたことに他人が満足しない場合は、どうなんですか?」 という質問をされた。
セコメントをする