覚醒と病気
2018-12-03


 「神の実験室通信88号」の中で私が書いたことについて、少し前に質問をいただいた。
 
 (「神の実験室通信」のバックナンバーは下記に掲載されています)
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 どういう質問かというと、

その通信の中で私は、「自分の病気も治療できない人の覚醒は完全ではない。だから、癌で死んだニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシなどの覚醒や教えは完全ではない」という考えには同意しないと書き、それに対して私のその反論の詳細を聞かせてほしいというものだ。

正直なところ、ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシ、あるいはその他のどんな賢者やスピリチュアルな先生の覚醒や教えが完全ではないとか、彼らは悟っていないとかいるとかという議論は、本当は私にはどうでもいいことなのだ。

でも質問をいただいたので、本日はあえて反論を書いてみようと思う。

まず、一般的な話として、「自分は絶対に病気にならない」とか「病気になっても絶対に自分の力(あるいは何かの力)で直す」 という超強力な信念を人がもつなら、たぶんそうなるのだと思うし、それは覚醒とはほとんど無関係な信念の問題だ。確かに強力な信念とか意志にはそういうパワーがある−−これまでの人生で様々な人たちを見てきて、一般的にはそういう傾向があると思う。

しかし、こうも思うのである。「絶対に病気にならない」 とか「絶対に病気を直す」 という信念を聞くとき、「その信念を維持するにはかなりの努力が必要かも」と。

そもそも非二元・覚醒系の教えでは、「私は1個の肉体ではない」 が教えの基本であり、そうであれば、1個の肉体が病気だろうが、健康だろうが、あんまりたいした意味もないだろうし、病気だからといって、あるいは病気で死んだからといって、その人の覚醒が不完全だとか教えが不完全だということにはならない。仏陀は食中毒で死んだというのが定説であるが、であれば、仏陀は食中毒も治療できなかったので、彼の教えも覚醒も不完全だという話になってしまう。
 
非二元系の教えの「覚醒」の意味とは、人間と呼ばれている物体を病気にならないような完璧な物に仕立て上げることではなく、人や肉体というイメージや物体「からの目覚め」と言う意味である−−少なくとも私はそう理解している。

「覚醒すれば肉体が病気にならないとか、病気で死なない」を突き詰めれば、さらにそれは肉体の不死への願望ともなり、驚くべきことに、「自分が強く信じれば、自分の肉体を不死にすることができる」という教えさえある。最近のことはよく知らないが、私が20代の頃、この種の教えが流行したことがある。ダグラス・ハーディングの「顔があるもの,顔がないもの」の本の中で、肉体の不死の教えに関する質問があり、ダグラスがそれに関して何と答えているかというと、「肉体の不死など、地獄である!」  というものだ。


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