死ぬ方法
2020-01-16


皆様、明けましておめでとうございます。


今年も気ままにブログを書いていく予定ですので、お時間があるときに気楽にお付き合いください。

先日の新聞で、ある哲学者の方が死ぬ方法として「断食」について書かれていた。(山折哲雄「先祖たちがつみあげてきたこと」1月11日(土)朝日新聞土曜版)

彼は若い頃、大病で入院したとき、強制的断食状態になり、それは最初はつらかったが、最後はとても気持ちのよい体験だったと書いている。「断食」とは大昔から、寿命を悟った高僧たちが採用してきた方法でもあるそうだ。

また以前ネットで、昔の離島などで、医学的治療が受けられなかった時代に、寿命が終わりかけていた人たちに、「断食」的方法が採用されていた、という記事を読んだこともある。

こういう話を読んで、寿命が終わりそうな頃、死ぬ方法として、断食(=飢餓)はとても良さそうに私にも思え、それを姉妹に話したら、「断食なんて、つらすぎる!」と反論された。

が、私も昔、ヴィパサナ瞑想に参加したとき、コースの間夕食を食べない経験から、「食べない」ことが、とても体を軽くすることを知ったので、「断食」で死ぬのは人が想像するほど、つらくないだろうと、予想している。

それから、昨年読んだ本に、ある国(たぶん、オランダだったと記憶している)で行われている安楽死の話が書かれてあった。その国では、安楽死の前に友人・家族が全員集まって、楽しいパーティーを開いてその人を見送り、それから安楽死へ旅立つという内容だった。その著者の方は、それを数年前に日本で話題になった、著名な評論家の自殺(入水自殺で、その自殺を助けた何人かの人たちが自殺ほう助で逮捕された)と比較し、同じ「自殺」でも、国が違えがずいぶん雰囲気が違うことを強調していた。

「断食」にしろ、「安楽死」にしろ、その他の方法にしろ、これからの日本では、(高齢者にとっての)「死ぬ方法」について、ますます議論が為される時代になるはずである。現実的経済的観点からいっても、高齢の老人たちの長生きをもうダラダラ支える余裕のない時代になりつつある。

前にも書いたように、シンプル堂と呼ばれている物体はどんどん目的志向の人になりつつあるので、「断食で静かに平穏に死ぬという夢」(笑)をかなえるにはどうするかを考え始めている――でも、たぶんそれは、諸々の条件がそろわないと実現しない、結構ハードルの高い「夢」になりそうである。


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