ため息セラピー
2020-05-31


それから、本やインタビューの中で五木さんの言葉に強く感じることは、「人が生き延びるということは、他者の犠牲を伴う」という人生観である。これはどういうことかといえば、色々例を挙げてみれば:

*人類という種が生きるために、他の生き物の命をもらっている。
*日本などの先進国の国民が安あがりで快適な生活をするために、より貧しい国の貧しい人々が犠牲になっている。
*強くたくましい人たちは、弱くて心優しい人たちを踏み台にして生きていく。
*一人の成功者の陰に、成功できない大勢の人たちがいる。

というようなことである。

こういった現実は誰もどうすることもできない。だから、自分がどちらの側(強い側、成功した側、あるいは弱い側、失敗した側にいても)、それを眺めることは「悲」であり、その「悲」は仏教の「慈悲」にも通じるものだ。「大河の一滴」以後の五木さんの文章には、特にその「悲」と深いため息を感じる。

彼がどれだけ作家として成功しても(彼は作家としては戦後の日本で、本が売れたという意味で、最も成功した一人であろう)、その成功にそれほどの幸福を感じていないように見えるのは、彼が生きてきた人生の中で、「強くたくましい人たちが、弱くて心優しい人たちを踏み台にして生きていく」風景を見てきたからであり、そして彼は自分もその「強くたくましい側の人間」であることを自覚しているからだと思う。

五木さんが、「大河の一滴」で、そしてバラエティ番組にまで出演して、自分の辛い過去を赤裸々に語るのは、人がどれほど成功していても(あるいは、幸せそうに見えても)、あらゆる人には他の人には理解できないその人特有の苦や不幸というものがあり、「苦しんでいるのはあなただけでありませんよ。みんなが苦を背負って生きていて、それが人生なんですよ」ということを、今、不幸や苦痛の中にいる大勢の人たちに伝えたいからだ、と私は感じている。

しかし、どれだけ自分の苦を言葉で語っても、あるいは共感してくれる人が周囲にいたとしても、本当のところ誰も自分の苦を言葉では語り尽くせるものではない。だから、辛いときは、「仕方ない」(私が好きな日本語の一つです)と、ため息をつきながら生きるしかないのである。そして、ため息をつくことで、苦をちょっとだけ吐き出して、活力を得て、日々少しの喜びを感じて生きる――それがほとんどの人の日常であろう――賢者ニサルガダッタ・マハラジでさえ、自分の教えが理解されない「苦」で、ため息の日々であったことが、「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」の本からうかがえる。

番組の最後のほうで、五木さんがよく引用する20世紀前半に活躍したロシアの文豪、ゴーリキーの言葉が紹介されていた。

「人生ってのは本当にひどいもんだ。でも だからといって自分でそれを投げ捨てるほどひどくはない」(という言葉を残したゴーリキーであるが、ウキペディアの情報によれば、政治的からみで暗殺(!)によって死んだらしい)

そんなこんな、半世紀前のアイドルをまじまじ見て、たぶん独自の健康法の効果のせいか、90歳近い年齢(1932年生まれ)で五木さんはとてもお元気そうで、うれしかった。お互いに半世紀、生き延びましたねって、感じで。


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