今年の3月から、「シンプル道コンサルティング」(詳細については、シンプル堂サイトへ
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たいていの人は、自分自身や自分の人生にたくさんの問題があると思い、それが悩みでストレスである――自分自身の性格や健康、人間関係、仕事やお金のことなど。
そういった諸々を問題だと見なし、何とか矯正・改善しなければと、奮闘・格闘すると、自分の期待とは反対に、たいてい問題はもっとひどくなるのが一般的傾向である。
問題と格闘すると、なぜ問題は大きくなるかといえば……
自分の人生の中のある要素(自分の性格でも、自分の体でも、自分の家族、その他の誰かや何かでも、問題と呼びうる何であれ)を見て、「あなたが、私の問題だ」とか、「あなたのせいで、私は悩んでいる」と思ったり、言ったりするとしよう。
すると、問題のほうでも、こう思うのだ。「わかりました。私はあなたの問題です。あなたがそう決めたので、私はこれからますますあなたの問題として、大きく成長しましょう」(笑)。
問題と戦うことそのものが、問題の力を容認し、問題にさらなるパワーを与える――このシンプルな理屈がわかれば、あらゆることを問題だと見なすことをやめる=つまり、問題で悩むことをやめる――ただし、こう書くと、「問題と見なさない=問題を無視する」という誤解が生じるかもしれないので、念のために書いておけば、私が言わんとしていることは、「問題を無視する」という意味ではない。
たとえば、私自身のことであるが、実は子供の頃からものすごく小心で心配症な性格だ。私の父親がそうなので、たぶんこれは遺伝である。どういう類の心配症かというと、たとえば、出かけるとき、電気やガスを止めたかどうか、部屋の鍵をかけたかどうか、約束の時間に間に合うかどうかみたいなことが、ものすごくしつこいほど気になる性分だ。鍵をしめたかどうか気になって、歩き出したあとでも、戻って確認したりするほどである。あるとき、こういった自分の性格を滑稽に感じて、調べたら、こういうのはある種の強迫性の病気だということがわかった(他にも、たとえば、極度の清潔好きで、何度も何度も手をしつこく洗ってしまう人なども、強迫性の病気に入るらしい)。
そう理解した後でも、小心で心配症な性格は変わらないが、今は別に気にもならなくなったし、たぶん、こういう性格には半面のよいところもある――私の父親を見て気づいたことだが、細かいところに気づくので、何をしてもミスが少ない。
そして、私自身に関しては、小心で心配症な性格ゆえに、かえって必要に応じて大胆にもなれる感じがしている。だから、私にとっては、小心・心配症という問題=大胆さ・勇気という答え、でもある。問題だと思うものと戦うのをやめれば、それは自分の人生から消えてしまうか、あるいは、自分の味方になってくれるかもしれない。
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