問題をめぐるシンプルな論理――問題は答えである
2010-06-27



今年の3月から、「シンプル道コンサルティング」(詳細については、シンプル堂サイトへ[URL])なるものを開業した。コンサルティングといっても、別に大げさなものではないし、私が個々の方の問題や悩みに対する具体的答えを知っているというわけでもない。来た方と楽しく雑談しながら、「すべては神の意志である」、「問題は答えである」、「問題と戦うのをやめて、人生を楽しむ」などのいくつかのシンプルな基本をお伝えし、さらにもし必要なら、役に立ちそうな本をご紹介している。

たいていの人は、自分自身や自分の人生にたくさんの問題があると思い、それが悩みでストレスである――自分自身の性格や健康、人間関係、仕事やお金のことなど。

そういった諸々を問題だと見なし、何とか矯正・改善しなければと、奮闘・格闘すると、自分の期待とは反対に、たいてい問題はもっとひどくなるのが一般的傾向である。

問題と格闘すると、なぜ問題は大きくなるかといえば……

自分の人生の中のある要素(自分の性格でも、自分の体でも、自分の家族、その他の誰かや何かでも、問題と呼びうる何であれ)を見て、「あなたが、私の問題だ」とか、「あなたのせいで、私は悩んでいる」と思ったり、言ったりするとしよう。

すると、問題のほうでも、こう思うのだ。「わかりました。私はあなたの問題です。あなたがそう決めたので、私はこれからますますあなたの問題として、大きく成長しましょう」(笑)。

問題と戦うことそのものが、問題の力を容認し、問題にさらなるパワーを与える――このシンプルな理屈がわかれば、あらゆることを問題だと見なすことをやめる=つまり、問題で悩むことをやめる――ただし、こう書くと、「問題と見なさない=問題を無視する」という誤解が生じるかもしれないので、念のために書いておけば、私が言わんとしていることは、「問題を無視する」という意味ではない。

たとえば、私自身のことであるが、実は子供の頃からものすごく小心で心配症な性格だ。私の父親がそうなので、たぶんこれは遺伝である。どういう類の心配症かというと、たとえば、出かけるとき、電気やガスを止めたかどうか、部屋の鍵をかけたかどうか、約束の時間に間に合うかどうかみたいなことが、ものすごくしつこいほど気になる性分だ。鍵をしめたかどうか気になって、歩き出したあとでも、戻って確認したりするほどである。あるとき、こういった自分の性格を滑稽に感じて、調べたら、こういうのはある種の強迫性の病気だということがわかった(他にも、たとえば、極度の清潔好きで、何度も何度も手をしつこく洗ってしまう人なども、強迫性の病気に入るらしい)。

そう理解した後でも、小心で心配症な性格は変わらないが、今は別に気にもならなくなったし、たぶん、こういう性格には半面のよいところもある――私の父親を見て気づいたことだが、細かいところに気づくので、何をしてもミスが少ない。

そして、私自身に関しては、小心で心配症な性格ゆえに、かえって必要に応じて大胆にもなれる感じがしている。だから、私にとっては、小心・心配症という問題=大胆さ・勇気という答え、でもある。問題だと思うものと戦うのをやめれば、それは自分の人生から消えてしまうか、あるいは、自分の味方になってくれるかもしれない。




[精神世界]

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