罪悪感の三段階(1)
2011-06-11


世の中には、風変わりな殺人者がいるもんだと思ったのは、先日、「人を殺すとはどういうことか」(美達大和著 新潮社発行)という本を読んだときのことだ。

殺人者の贖罪本にしては、その端正な文章のうまさが印象的な本で、本を読みすすんだとき、私はその理由を納得した。おそらく殺人者にしてこれほどのインテリで読書家もそうはいないかもしれない。しかも、この人は刑務所に入ってから読書家になったのではなく、殺人者になる前から無類の読者家でインテリだったのだ。幼い頃は、金持ちの坊ちゃんにして、神童、しかし、父親の事業失敗で、貧乏のどん底に、それから、大人になってからは、仕事で成功し、殺人犯で捕まるまでずっと、年収は億を超え、一ヶ月(一年間にではなく、一ヶ月に、である)に、単行本を100冊から200冊、週刊誌20誌、月刊雑誌60誌から80誌も読むほどの、読書の日々を送った人なのである。当然、その殺人も、激情に駆られて突発的に、というものではなく、計画的に冷静に論理的に行ったのである。

本書では、著者の改心改悛の情、そして、著者が持ち前の鋭い観察眼で観察した様々な受刑者仲間、犯罪者の生態が描写されている。以前から、私はそう確信していたのだが、本書でも、受刑者の多くは自分が犯した罪への罪悪感がないということが書かれている。以前別の死刑囚の方の文章を読んだときも、そう書かれてあったし、刑務所にいた体験があるロシアの文豪、ドストエフスキーも刑務所体験を描写した文章の中で、そう書いていた。

重大な犯罪を犯しながら、罪悪感がないし、反省もない――おそらく、これは普通の人には信じ難いことであろう。彼らが本当に反省することは、「自分がドジを踏んで、警察につかまったこと」なのだそうだ。

私の観念によれば、他人にひどい行為をしても罪悪感がわかないのは、彼らが動物的意識に支配・憑依(動物的催眠状態)されているからなのである。動物(食物連鎖においては人間も)は自分よりも弱いものを餌にして、生きている。自分よりも弱いものを蹴散らして、生き延びている。何をしても生き延びること=善、なのである。どんな動物も、餌を捕獲して食べる前にもあとにも、「かわいそうなことをした」とか、「ああ、こいつにも親や子供がいるんだな」とか、「ああ、死ぬ瞬間の表情が苦しそうだ」などと絶対に思うことはなく、餌を食べたあとは、満足感だけで、罪悪感はわかないはずである。万一子供を殺されたシマウマの母親が、ライオンに向かって、「なんでうちの子を食っちゃたのよ」と尋ねるなら(実際の動物界ではありえないことであろうが)、「そこでウロウロしていたのが、悪いんだろ。子供を亡くしたくなかったら、逃げる教育をしっかりしておくことだな」とでも答えることあろう。

著者が、刑務所の中で他の受刑者に、「なぜ人を殺したのか?反省はしないのか?」と尋ねまわっても、多くの受刑者が、「そいつがそこにいたのが、悪い」とか、「オレに逆らったのが、悪い」みたいな動物的意識の論理で答えているのが興味深いところだ。

では、なぜ著者には深い罪悪感がわき起こったのかといえば、それは裁判の最中に、検察官が殺人現場の情景を読み上げたときに、天啓のごとく、突然に自分が殺した被害者との同化が起こり、「被害者の立場に立つ」ことを余儀なくされ、衝撃を受けたからだ。そのとき、著者は人生で初めて自己嫌悪を感じたという。その裁判が始まる前までは、著者にはまったく罪悪感がなく、自分がやったことの正当性を疑うこともなかったというから、それが起こったのは、著者個人の意志ではなく、まさに宇宙の計らい(神の意志)なのであろう。かくして、動物意識の憑依から突然に目覚め、人間化への進化を余儀なくされた著者は、罪悪感と自己嫌悪に苦しむようになったのである。

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