感情の研究(2)罪悪感の裏側
2013-05-19


しかし、より精神の進化が進んだにもかかわらず、人間界ではなぜか、罪悪感の強い人は罪悪感を感じない人たちよりも、不利な立場に置かれることが多い。その理由は、前回のときにも触れたけれど、一つは、罪悪感は常に人を後ろ向きにさせ、過去の重荷を背負わせ、自分の現在を否定し、前に向かうエネルギーを奪うからである。罪悪感を感じなければ、自由にできることが、いったん罪悪感を感じてしまうと、自分が何をしても、間違った、正しくない側にいるような気がするのだ。そして、これも以前に書いたことではあるが、それに追い打ちをかけるように、罪悪感はある種のトリックスター(悪戯もの)で、自分が無意識に何かに強く罪悪感を感じていると、ほとんど必ず誰かが鏡のように自分を批判しにやって来るという具合である。人間界でよくおこなわれるゲームの一つは、「私は正しい・あなたは間違っている」という罪悪感のなすりつけ合いである。

それから、罪悪感を感じるもう一つの主要な原因に、理想の自己イメージというものがある。自分に対してある種の理想的な善なる聖なる自己イメージをもつ場合、それにそぐわないことをすると、罪悪感を感じやすくなる。自分はよい人(母、父、夫、妻、子供、友人など)であるというイメージを強くもっていたり、自分がいつも正しく、清く、美しく、賢く、スピリチュアルでなければいけないと思ったりすると、自分にも周囲にもストレスを与える。人は、絶対的に善の人も絶対的に悪の人もいるわけではなく、関係によって善になったり悪になったりするだけである。イエス・キリストでさえ、ユダヤ社会にとっては「悪」であったのだ。

だから、私はいつも思うのである。人としての私たちはみな、精一杯生きてはいるけど、それでも不完全な生き物である。だから、自分の中にある冷たさ、間違い、愚かさ、優柔不断、気遣いのなさ、意地悪な気持ちを、ゆるしましょう、って。自分がいつも「よい、正しい、賢い、清い、美しい、高い、聖なる側にいる」と、思い込むのはやめましょう、って。もし次回、罪悪感を感じたら、とことん、「自分は本当に悪いやつ」と感じきるのも、よい方法である――私自身、この方法で、何度かしつこい罪悪感から解放された経験がある。自分の「悪」を受け入れたら、もう「よいふり」をする必要もなくなり、そうすれば、緊張がなくなり、ありのままの自分でリラックスしていられるものである。

それから、最後に、自分が社会の少数派に所属していると感じるときに、「自分の状態はおかしいのではないか」と罪悪感を感じる人たちがたくさんいる。しかし、本当のところは、あらゆる人は究極的には誰でも、「少数派お一人様」である。人としての私たちの存在のあり様は、決して他人と同じではありえず、色々なことが異なるのが普通である。人間は(動物とは違って)、お互いが違って、多様であるのが普通である。自分と他人を比較して、自分が他人のように考えたり行動できないことを責めたり、他人が自分のように考えたり行動できないことを責めても、百パーセントムダ! である。「北朝鮮化運動」(笑)――みんなが同じように考え・行動することを絶対善として、少数派を断罪しようとすることを、私はひそかにこう呼んでいる――は、人生の最大のムダと非効率である。

むしろ、人間関係や組織においては、違うもの同士が、どうしたらお互いの違いを認め合って、共通の仕事や何かを一緒にやっていくことができるのか、それを研究するほうがはるかに役に立つだろうと、思っている。

以上、罪悪感を感じやすい原因をまとめれば、

1他人の感情領域に敏感である
2自分の言動の内省と過去を記憶する能力と向上心の増加
3自分に対する高い理想的な自己イメージ
4自分と他人を比較し、少数派であることを感じる


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