思考と感情を眺めていると、思考と感情は密接にリンクしていることがわかる。感情は、いわば、思考の燃料のようなもので、思考に感情が投入されればされるほど、その思考が現実的に感じられる。
アジャシャンティは、「あなたの世界の終り」の中で、一つ一つの感情の背後には一つ一つの物語、世界観(思考)があることを詳しく述べている。彼は、若い頃、ノートをもって喫茶店にこもり、自分の感情の奥底まで辛抱強くたどり着いたという経験を紹介しているが、これはいわば、バイロンケイティの四つの質問と、セドナ・メソッドを組み合わせたような非常に強力な方法である。
感情の背後の世界観にたどり着くとき、人は自分がどんな世界観で世界を眺めているか、そして実際その世界観のとおりに世界を体験していることを理解するはずである。人の世界観が、その人の世界ということができるが、その世界観は、幻想でもある。アジャシャンティが言うように、「私たちの全自己感覚と世界がマインドの中で創造されているのを見ることは、根源的なことです。思考構造が本質的現実を何ももっていないことを私たちが見るとき、自分がマインドを通じて認識するような世界は、どんな現実ももちえないことを理解するようになります。これは天地がひっくり返るほど衝撃的なことです」(「あなたの世界の終り」ページ158)
と、書き、読むことは簡単であるが、読んで納得しているだけではほとんど役に立たない。自分の日常生活で、自分の感情パターン(何かにひどく腹が立ったり、気分が落ち込んでなかなか立ち直れないとか)に気づき、あとではなく感情がわき起こったその時に、その感情パターンの背後にある世界観・思考を突きとめる必要がある。
ただし、私たちが感情の背後にある世界観・思考に気づいたからといって、同様の感情を再び感じないわけではないし、自分の思考・解釈・意見・感情を追い払おうとする試みも、意図的によい感情を感じようとする試みも、ムダだと私自身は思っている。どれだけ自分の思考・解釈・意見・感情が現実ではないと理解しても、交通の流れと同じく、そういうものが自然にやって来るのを、私たちは止めることができない。ただ、それらが普遍的現実をもっていず、また、出来事にはあらゆる解釈が可能で、誰の解釈も意見も絶対的に正しいわけでもないことを理解すれば、人と争わずにすむし、自分も苦しまずにすむ。
さて、ここでスピリチュアルを学んでいる人たち(スピリチュアルの本を読んだり、何かのワークをやったり、瞑想などをしている人たち)に特有な感情の問題について言及してみよう。スピリチュアルの本を読んだり、ワークをやったり、瞑想などをすると、特に初期の頃には、感情が非常に湧いてくることがある。心を静めるために始めたワークや瞑想のせいで、かえって思考や感情がうるさくなるということも、非常によく起こることである。感情や思考がたくさん湧くことは悪いことではなく、本やワークや瞑想などの刺激で、今までいわゆる抑圧されてきた、自分で見ないように蓋をしてきた思考や感情が、蓋が取れて、湧きあがってきたことにすぎない。あるいは、感情がより敏感になって、以前は何も感じなかった場所や人や出来事が、より苦痛に感じられるということも起こり得る。また中には、大量に湧き起こる自分の思考や感情に耐えられなくて、それを外側のターゲットに投影して、吐き出す人たちもいる。ターゲットにされる人には迷惑な話ではあるのだが、これはスピリチュアルの世界ではよく起こる話なのだ。
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