今、ダグラス・ハーディングの新刊、To Be and not to be, that is the answer(存在し、存在しない、それが答えだ−仮称) の編集作業を進めている(出版時期は現在未定ですが、たぶん夏の終わり頃の予定で
す)。
訳者あとがきの内容と一部重複するが、彼の教えとの出会いから書いてみよう。
話は、1980年代の後半まで遡る。たまたま読んでいたある本にダグラス・ハーディングのOn Having No Head(「心眼を得る」) のある章の翻訳が掲載されていて、私はその文章に非常に強い印象を受けた。悟りや覚醒についてのまったく斬新な彼の表現を非常に不思議というか奇妙に感じ、同時に非常に重要な何かを言っているのだとも感じた。それで、どうしても本全部を読まなければいけないと思い、なんとか情報を調べて、On Having No Headとその他の彼の本を数冊手に入れ、読み始めた。
読み始めて、そして同時に実験もやってみて、私は次のことをおおまかに理解した。
*いわゆる「悟り」(この言葉を私は好まないがあえて使うと)や覚醒 は個人にはない。つまり、個人は絶対に悟らない、覚醒しないということ。
*では、覚醒とか「悟り」とはどこにあるかといえば、主体である「私」(この場合の「私」は個人的私、人間的私という意味ではない)はすでに永遠に悟っている。
*しかし、同時に私たちが見る現象世界は般若心経で言うまさに色即是空、空即是色である。涅槃と世俗(悟りと迷い)はまさにコインの表裏のようにピッタリとくっついている。
私は30代の初めからタデウス・ゴラスの「怠けものの悟り方」路線であり、元々修行とかそいうことは好きでなく、坐ってやる瞑想もある時期はやってみたものの、もう退屈でやる気も起きなかったので、ハーディングの本によって、「個人は悟らない」と知って、私は何かひどく安堵した。つまり、「個人は悟らない」なら、悟るためのどんな修行も努力も無駄ということであり、やはり「怠けものの悟り方」路線のままでOKなんだと再確認したわけである。そして今までどおり、自分が気のむくまま自分が好きなことをやっていけばいいのだと思った。
彼の本を読んだおかげで、長年の疑問が解消されたと同時に、また多くの疑問も生じ、それらの疑問について考えるために、私はありとあらゆるスピリチュアルな本を買いあさって読むようになった。
ときはちょうどバブル経済がはじけた頃の話で、その当時私の中ではダグラスの教えは、様々な教えの中の一つにすぎなかった。たぶんダグラスご本人と会う機会がなかったら、彼の教えも自分を通過した数多くの教えの一つにすぎないままだったかもしれないと思う。たまたま90年代の中ばに彼がまだ生きていることを知り(彼は1909年生まれなので、もうとっくに死んでいると私は思い込んでいた)、当時彼の秘書をつとめていた女性のところへ問い合わせの手紙を書いたのだ。
すると折り返しすぐに「ダグラス・ハーディングは今でもヨーロッパとアメリカでワークショップをやっています。よかったら参加してください」という返事がきて、その年の夏、アイルランドで開かれる6日間合宿ワークショップの案内が同封されていた。
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