先日のヤン・ケルスショットのワークショップの中で、彼がした話をもう一つ思い出した。
それは(見かけの)グルや教師 の役割についての話で、彼はグルや教師とは、何かを燃やすときの触媒のようなものだという話をした。
たとえば、砂糖を燃やすとき、砂糖だけだと燃えない(そうである)が、灰(タバコの灰?)を砂糖につけて砂糖を燃やすと、砂糖は燃え始め、最後には砂糖は燃え尽きて、そしてあとには触媒の灰だけが残る。この喩え話では、砂糖が霊的探求者で、灰がグルや教師ということである。
つまり、グルとか教師は探求を推進する影響を与える役割をもっている、というわけである。そういう意味では、ヤン・ケルスショットもたくさんのグルや教師から学び、影響を受けてできたようだ。(私自身はことノン・デュアルの教えに関しては、「グルとか教師」という言葉よりもどちらかというと、伝える役目の人、つまり、「伝道者(道を伝える人)」とか「伝導者(伝え導く人)」という言葉のほうがふさわしい気がしている)。
この話は、ラメッシ・バルセカールがした話にも似ている。彼はグルについて、「人が探求を始めるときには、グルや教師は必要ではないが、探求を推し進めるにはグルが必要である」と、確かこんな話をどこかでしたと私は記憶している。
この話題に関して、私がまた思い出すことは、私が20代の頃に私を霊的探求へ引き入れたきっかけとなったJ・クリシュナムルティの言葉だ。
彼は繰り返しこう言っている。「自分の本質に覚醒するのに、グル、ワーク、本は必要ない」。私は読書以外なるべく何かをしたくないので、この言葉を喜び、この人は真実を言っているに違いないと直感したが、一方で、「本が必要ない」と言っている人の言葉が書かれている本を、熱心に読んでいる自分をよくバカバカしく感じたものだ。
さらにあとで思ったことは、「本は必要ない」と言いながら、彼自身は晩年まで世界中を講演してまわっていて、少なくとも「言葉」を使っていたわけだ。もし本が必要ないなら、それはすなわち「言葉による講演」も必要ないだろうということだった。
もし人が外側のグルも本もワークも一切なく、自分一人で霊的探求をし、目覚めに至ったら、それが「王道」である。しかし、それはほとんど起こりえないことで、もしそれが起こるとすれば、その人は「ほとんど」覚醒して生まれている。私が名前を知っている賢者では二人だけである――ラマナ・マハルシ(インドの賢者)とロバート・アダムス(90年代に亡くなったアメリカの賢者)
ノン・デュアルの教えに限って言えば、J・クリシュナムルティの言っていることは正論である――「私とは何か」を認識・理解するために、私以外の何も、思考や感情でさえ必要ではない。しかし、正論はほとんどいつも役に立たない(笑)。
話を「触媒」に戻そう。私が思うに、伝道者だけでなく、本やワークもある意味では「触媒」である。その他人生の出来事も触媒である。ほとんどの霊的探求者は、その探求を推進するために何らかの触媒を必要とするものだ。
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