3月中旬頃に、いよいよPointers From Nisargadatta Maharajが、「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」というタイトルでが発売されることが決まった。次回のブログで、価格、目次を公表する予定です。
先日の会でもお話ししたことであるが、ニサルガダッタ・マハラジの教えを理解するためには、彼がよく使う基本的言葉の正確な定義というか意味をまず理解することが重要であろうと、私は思っている。
たとえば:
意識、絶対、気づき、主体と対象、観念化(対象化)、意識の機能などなど。
(意識、絶対、気づき、主体と対象については、昔のブログに書きましたので、そちらをご参照ください)。
今日は今回の本にたびたび出てくる、「観念化(対象化)」、「意識の機能」という言葉について、簡単に説明してみよう。
「観念化(対象化)」とは;
今、皆さんがどこでこのブログを読まれていても、皆さんの目の前に一つの映像世界(→崇高な言葉を使えば、「顕現」)が広がっているはずである。もし人が何の思考も感情もなく、ただその映像(顕現)を眺めているだけであれば、それは「観照」と呼ばれる。その状態では、顕現はただ顕現であり、その中に分離も区別もなく、「私が」「○○を」「見る」という三つ組みがなく、ただ意識の機能として「見ること」が起こっているだけである。
しかし、それからマインドが介入してきて、その映像世界のある部分を区切って、「これはパソコン、これは同僚の○○さん、これはボールペン、これは電子レンジ、これは机、あれは上司……」と名前をつけて、区別する作業をおこなうとき、これがニサルガダッタ・マハラジが言う「観念化(対象化)」である。
その「観念化(対象化)」が始まるとき、私はそれぞれの対象物の人間的物体的主体となり、対象物との間に二元的関係を作る。
私が観念(対象化)を始める前は、私は一個の人間物体ではなく、顕現した意識そのものである。しかし、私の中で対象化が始まる瞬間、私はパソコン、同僚の○○さん、ボールペン、電子レンジ、机、上司に対する人間物体となる。
そして、肝心なことは、誰もこの観念化(対象化)を意志で止めることはできないし、観念化(対象化)が自動的に起こらなければ、私たちは人間として機能することはできない、ということだ。これができなくなる病気は、医学的には「認知症」と呼ばれている。
ニサルガダッタ・マハラジが言わんとしていることは、絶対的観点から見たら、人間的主体(相手から見れば、それもまた一個の対象物である)対対象物という関係は幻想であり、「私」は一個の対象物でも、一個の人間的主体でもありえないことに気づくことが、「目覚め」である、ということである。
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