スピリチュアルな探求――自分にとっての最後の教え
2010-03-10


ラメッシ・バルセカール「誰がかまうもんか!――ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」の本を、ようやく皆様にお届けすることができてホッとしている今日この頃である。すでに読まれた方、感想をお寄せいただいた方、どうもありがとうございました。

私がラメッシの教えと本に最初に出会ったのが、今から15年前ほどで、そしてダグラス・ハーディングの教えと本に出会ったのが、今から20数年前である。私はスピリチュアルな本に関してはわりにいい直感があるというか、この二人の先生の教え関して、最初に出会ったときに、自分にとって最後の教えになるかもしれないというかすかな予感がなんとなくあった。

とはいえ、私の中には、ある種の信じやすさと極度の疑い深さが同居しているので、まあ、スピリチュアルに限らないが、何事に関しても、信じたものを一つ一つ疑っていく、そして、その疑いをさらに検証していく、そんな作業をせずにはいられない性分である。

だから、何事に関しても、結論がでるのに数年以上、長くなれば数十年の時間がかかってしまうのである。こういう私のプログラミング・性格は、本当は、スピリチュアルな探求より、科学的探究のほうがずっと向いているようにも思え、そのためか時々、スピリチュアルな世界に関わっている自分にある種の場違いな感じを感じてしまうことがある。

で、ダグラスとラメッシの教えに関しても、その言葉を読み込み、考え、実験をし、直接ご本人たちにお会いし、それが自分にとっての最後の教えだと確信するまでに、出会ってから10年くらいの時間が必要だった。

スピリチュアルな探求をする人は、最初はいろいろな教えや本を読み、色々なサークルや先生を見学に行ったりするわけであるが、たくさんある教えの中で何が自分にとっての最後の教えかどうか、どうやって確信するにいたるのだろうか?

その「確信」とは言葉ではうまく説明できないものだが、言ってみれば、疑いと信じることが両方終わるときに、「確信」が生まれるような気がする。

「確信」が生まれるとどうなるかといえば、仮に自分以外に誰もその教えに賛成しなくても理解しなくても、かまわないという気持ちになるということである。同じ道を歩く同胞がいれば楽しくもあるけれど、自分一人しかいなくても全然問題ではないのだ。

この間読んでいた「私訳 歎異抄」(五木寛之著 東京書籍発行(「歎異抄」は鎌倉時代の仏教の師、親鸞の言葉をまとめた名高い古典)の中で、親鸞は、たとえ法然聖人(親鸞の師)に騙されて、念仏を唱えて地獄に落ちても、それでもかまわないと言っている。こういう心境が、本当の宗教的確信である。世俗的ご利益があるからとか、たくさんの人がいっしょに信じるから、それに従うというのは、本当の意味では、スピリチュアルではないだろうと私は思うのである。

実際、親鸞は、法然とともに、時の権力者に嫌われ、流罪となり、僧籍を剥奪され、でも、一般人になれたおかげで、結婚できて、子供を作ることができた。しかし、その息子のせいで、また親として師として、のちのち苦しむことになる、といった、「万事塞翁が馬」の人生が展開してゆく。

私が「歎異抄」を今回はじめて読んで興味深く感じたことは、親鸞の教えとラメッシ・バルセカールの教えには、共通している点が多くあるということである。


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[精神世界]

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