本日は、前々回の続きで、ラメッシの教えのもう一つの主要な観念「意識が存在するすべてである」を、ダグラス・ハーディングの実験を交えて解説してみよう。
このブログを今、お読みになっている皆さんは、どこかの場所で、おそらくパソコンか携帯の画面を眺めながら読まれていると思う。今回は、読みながら、時々、画面から目を離して自分がいる空間を見て、確認してもらうことをお勧めする。
まず、パソコンや携帯を操作している人間(一般的に自分だと思っている肉体のことです)、ラメッシの言葉を使えば、肉体精神機構を、仮にここではAと呼ぶことにします。
そして、Aに見える空間の中には、パソコン、携帯、机、椅子、テレビがあり、さらには、他の人間(肉体精神機構)B、C, D等、もし屋外なら、車、木、花とか太陽も見えるかもしれない。さらにはもし鏡があれば、[A](鏡に映ったり、他人から見られたA)もいるかもしれない。
こういうありふれた状況で、人間思考は次のように考えるのが普通だ。
*私はA、および[A]である。
*私であるAが見ている者で、したがって、主体で、その他のものは、見られる対象物である。
*Aとその他の非Aは、まったく別のもので、完全に分離している。
私たちは、幼い頃から、イヤというほど、この人間社会の二元論ルールを教え込まれ、信じさせられ、催眠にかけられ、その結末は、孤独と苦しみである。Aは、他のBやCやその他無数の人間(肉体精神機構)との過酷な競争にさらされ、それに勝ちぬかなければ、人生でのおいしいご馳走や報酬は貰えないと脅されている。
A対非Aの分離、二元論こそ、人間社会の基盤となっている。
いわゆるスピリチュアルな探求とは、たいていは、人間(肉体精神機構)Aがこの孤独、苦しみをなんとかしようと思うときに始まるのである。
そのスピリチュアルな探求のプロセスは、まず最初は、Aを浄化するとか、Aの運命や人間性の向上をめざす(これがたぶん、非常に長く続く)ようなことから始まり、最終的には、もし運と縁があれば、私はAでも[A]でもないという教えにたどりつく。
では、ラメッシ、ダグラス、その他究極の真理を教えている先生たちは、「私とは何か?」についてどう答えているかというと、観念的説明ではあるが、簡単にまとめてみると、
*私は、本質的にはAでもなければ、[A]でもない――つまり、私は肉体でもなければ、思考・感情でも、イメージでもない。
*私たちの本質は、努力して達成すべきものではなく、単純に今ここで気づくべきものでる。
*Aと非Aは、分離しているように見えるが、実際は分離しているわけではなく、両方で一つの運動を形成し、その単一運動が、ラメッシの用語を使えば、「運動中の意識」と言われているものである。A、B、C、D、その他は、人間的観点ではおのおのが独自の意志をもっているように行動しているが、実際は、それぞれがどう行動するかは、神(意識)の意志によるもので、誰もコントールできない。
*だから、私たちが何かを見ているとき、「Aが対象を見ている」というのは事実ではなく(人間クラブの言語では正解であるが)、実際は、「見ること」がただ起っているだけなのである。「見る者」という主体と「見られもの」という対象という二つの分離したものがあるわけではなく、その二つが融合して、ただ「見ること」だけがある。
それを一番簡単にわかる方法が、ダグラス・ハーディングの開発した実験で、一番簡単なものを一つご紹介しよう。
1まず、自分が、目の前に自分の顔というか頭を「見ていない」ことを確認します。
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