「動物園」・「人間クラブ」・「神の王国」(3)
2016-05-10


「神の王国」

伝統的宗教であるキリスト教、仏教 が言うところの「神の王国」、「涅槃」、あるいは非二元系、インドのアドバイタ系の教えが言うところの「悟り」、それが何であるにせよ、ここ数十年でまわっている賢者の方々の教えによれば、「私たちは今ここですでにそこにいる、ないしそれである」というのが定説である。

であるとしたら、私たちが問うべきことや学ぶべきことは、「どうやってそこに到達するのか?」とか「どうやってそれを獲得するのか?」ではなく、むしろ、「どうやってそこから転落する(した)のか?」、 「いつそこから転落する(した)のか?」  ということであろう。

子供の頃、私たちはみなその王国(対立がなく、あらゆる人が必要なものに恵まれている王国)に住んでいたとされている。それが大人になる過程で、王国から転落して、生存競争が激しい人間クラブや、さらに運が悪い場合は「動物園」へすら落ちてしまうのである。

私の理解によれば、転落の主なプロセスと理由は次のようなものである。

1成長する過程で、私たちは全体から自分を切り離し、自分を個体化する。

2個体化する過程で、私たちは孤独になり、他の個体との競争世界、生存競争に投げ込まれてしまう。

3マインドが発達し、社会が教える善悪を学ばされる。

4私たちはしだいにマインドの支配化におかれるようになる。

5以上の結果、私たちはマインドの「get and achieve(獲得と達成)」に駆り立てられ、いつも自分には何かが不足していて、自分の現実はいつも何か欠陥があるという観念に取り憑かれてしまうのである。

以上のプロセスが間違っているとかそういうことではなく、それは子供を社会化し、社会にとって役立つ人間に育てあげるという意味で、必要なことでもある。問題は、ダグラス・ハーディングも言うように、進化というか成長がそこで止まっているということだ。−−「『私』は個人的意志をもった一人の人間である」という観念のところで、止まっていることである。

恩寵か何かによって、私たちがさらに霊的進化(成長)をする、あるいはさせられるとき、次のことを理解・認識することで、「涅槃」、「神の王国」、「悟り」が今ここにあり、そこでは必要なものは何も欠けていないことを確信するというだけのことである。だから、それは仰々しくも華々しくも神秘的でもなく、ただ興奮を欠いた平和というのが一番近い表現である。

1「本当の私」は一人の人間(個体)という見かけではない。

2「本当の私」はすべての人の本質でもある。

3「本当の私」とは「神」のことである。(「神」という言葉が嫌いな人は、「意識」でもその他、何でもお好きな
言葉を使ってください)

4私たちが現実と呼ぶものを創造しているのは、神である。よってすべては神(本当の私)の意志である。

5そして、マインドは以上の1から4を理解する能力がない。

6私たちにできることは、現実(それがどんな現実であれ、目の前で展開していることを)神の意志として受け入れることだけである。

なぜマインドは以上のことを理解できないかというと、


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